市は夕暮れの色に沈みかけていた。西日が瓦を赤く濡らし、店先に並ぶ反物や飴細工が、その斜めの光を吸って、燃えるように色づいている。環は死んだ叔母の形見の紅染めの帯を締め直し、人混みへ滑り込んだ。すれ違う女たちの視線が、赤い帯を追っていく。その視線がほしくて、今日もこれを選んだ。灯ともし頃の橙が、緋色をいっそう際立たせる。誰かが「あら、きれいな帯」と囁くたび、環の胸に、ほんの束の間、灯りがともる。
「その色、あなたのものじゃない」
市は夕暮れの色に沈みかけていた。西日が瓦を赤く濡らし、店先に並ぶ反物や飴細工が、その斜めの光を吸って、燃えるように色づいている。環は死んだ叔母の形見の紅染めの帯を締め直し、人混みへ滑り込んだ。すれ違う女たちの視線が、赤い帯を追っていく。その視線がほしくて、今日もこれを選んだ。灯ともし頃の橙が、緋色をいっそう際立たせる。誰かが「あら、きれいな帯」と囁くたび、環の胸に、ほんの束の間、灯りがともる。
「その色、あなたのものじゃない」
祖母の葬儀から三日後、沢渡汐音は実家の玄関先で鍵を握ったまま、しばらく動かずにいた。錆びかけた鍵穴に馴染むまで、いつも少し粘る鍵だった。子供の頃から変わらない抵抗感が、掌にじんわりと伝わってくる。手帳には「実家整理・売却手続き、五日間」とだけ書いてある。悲しいという言葉の代わりに、数量を並べる。段ボール八箱。査定二件。書類一式。そうしておけば、たいていのことはやり過ごせた。
在来線を二本乗り継ぎ、バスに揺られて一時間。窓の外の景色が家々からやがて茶畑と杉林に変わっていくのを、汐音はほとんど見ないようにしていた。バスが停留所に着くたび、車内アナウンスの地名が一つずつ懐かしくなっていくのが煩わしかった。十二年間、意図して戻らずにいた場所だった。就職も、引っ越しも、盆や正月の帰省を断り続けたことも、すべてはこの土地から距離を取るための小さな決断の積み重ねだった。祖母の葬儀の連絡が来なければ、あと十二年でも戻らなかっただろう。
修復室の窓から差し込む午後の光が、作業台の上の紙片にまっすぐ落ちていた。芦原冴はピンセットの先を、欠損した右下の余白にそっと這わせる。紙は百二十五年分の乾いた匂いをまとい、触れるたびに小さく軋んだ。埃と糊と、かすかな砂の匂い。エジプトの砂漠の砂が、まだこの繊維のどこかに残っているのかもしれないと冴は思うことがある。
明治三十四年、貿易商・雨宮誠一郎がエジプトから持ち帰ったという護符の断片。闇の中に立つ、背の高い影のような姿。輪郭は途中で欠け、右半分は後世の修復師によって粗く補われていた。展示台帳には「正式名称不明、護符の一種と推定」とだけ書かれている。誰かがかつて調べようとした痕跡はあるのに、答えは残っていない。
宇宙天啓監理局第三分室――正式名称を口にする職員はもう誰もいない。皆、自嘲を込めて「そらみみ局」と呼ぶ。空の耳、空耳。庁舎は旧い気象観測所を改装したもので、廊下の蛍光灯は半分が切れかけ、地下には今も使われないアナログ受信機が埃をかぶって並んでいる。深宇宙電波望遠鏡群が拾い上げる無数の揺らぎの中から、統計的な篩にかけられたわずかな残りだけが「天啓」という名前を与えられ、希望を求める市民へと配布される。
根岸武志には威圧感というものが存在しなかった。
身長百六十二センチ。体重五十四キロ。声は低いが通らず、電話でよく「もう少し大きく話してください」と言われた。五年間、消費者金融の下請けで取り立てを続けてきたが、根岸が自力で回収した案件はゼロだった。怒鳴ることができなかった。睨むことができなかった。ドアを三回ノックして「あの、お時間よろしいでしょうか……」と始めてしまう取り立て屋は、根岸の他にいないはずだった。
頼光殿が命令を下したのは、丑の刻を過ぎた頃だった。
広間は暗く、松明一本だけが頼光殿の横顔を照らしていた。卓の上には何もなかった。地図も文書も、示されるべき理由も。
「大江山に向かえ。酒呑童子の首を持ち帰れ。」
それだけだった。
なぜ今かも、なぜ自分一人かも、問う間もなかった。問えたとしても、頼光殿はきっとこう答えただろう——頼む相手がお前だからだ。その言葉が金時には問いの答えとして機能するように、この二十年で調整されていた。頼光殿は金時をよく知っている。金時の力だけでなく、金時の構造を、知っている。命令が意味として機能する者だということを、知っている。
割り箸をうまく割れない人間が、世の中には一定数いるはずだ。
津村拓弥はそう確信していたが、二十三年間、証拠がなかった。
津村拓弥、四十二歳。中堅食品メーカー営業部、係長。入社二十三年目。仕事は丁寧で評判がよく、得意先のキーマンの誕生日と好きな球団と血液型を全員分頭に入れていた。後輩の指導にも時間を割き、ここ三年の成績は部内トップだった。そんな津村の唯一の、完全な秘密は——割り箸を、一度もうまく割れたことがない、ということだった。
縁側に座っていた登世は、ラジオから流れてきた一言に、湯呑みを持つ手を止めた。
「沢見堤の老朽化に伴い、来月より大規模な改修工事を行う予定です。工事期間中は河川敷の通行が制限されますので、ご注意ください」
孫の渚は麦茶のグラスを置きながら、ぼんやりとその放送を聞いていた。だが、隣に座る祖母の手が止まったことには気づいた。
「おばあちゃん、どうかした?」
「ああ、ごめんね。少し前から、堤防の方で重機の音がするなと思っていたの。もう始まるのね」
朝、目が覚めると、天井のしみをしばらく眺めるのが、いつからか習慣になっていた。蒲生茂三、七十八。妻の千代を見送って三年、家の中で鳴る音といえば、自分の立てる物音だけだ。止まったままの柱時計を横目に、茂三は身支度をする。行く先だけは、決まっている。
「やまびこストア」の自動ドアは、開くたびに半音ずれた電子音を鳴らした。茂三はその間の抜けた音を、自分の一日のはじまりの合図のように聞いていた。
朝の靄がほどける前のスクランブル交差点には、誰もいない。
甲斐千夏は信号柱の根元にしゃがみ、細い刷毛の先で錆を描いていた。雨垂れの通り道に沿って、上から下へ。途中で一度だけ息を止め、穂先を逃がす。錆は描くものではなく、流すものだ。この三年で手が覚えた。
顔を上げれば、見慣れた看板群が朝の光を待っている。家電量販店、ファストフード、消費者金融。文字はどれも、実在の店から一画だけ変えてある。嘘の街の決まりごとだ。その向こうにそびえているのは、ビルではなく杉山だった。建物はどれも三階分までしかなく、その上は剥き出しの鉄骨と空になっている。ときどき、本物の鳩が迷い込んでくる。偽物の街で、鳩だけが本物だった。