家庭裁判所の待合室は、乾いているようで、どこか湿っていた。壁に染みはない。床も曇っていない。空調は行き届いていて、古い建物にありがちな紙の匂いも薄いのに、亮には、洗って半日だけ室内に干したシャツの胸元みたいな湿り気が、ずっと鼻の奥に貼りついている気がした。
背もたれの硬い椅子が等間隔に並び、向かいの壁の時計が秒を刻むたび、誰かの膝の上で書類の端がかすかに鳴る。亮はその音を数えかけてやめた。意味がないとわかっていても、やめるまでに二拍かかる。その二拍に、自分の癖が収まっている。
家庭裁判所の待合室は、乾いているようで、どこか湿っていた。壁に染みはない。床も曇っていない。空調は行き届いていて、古い建物にありがちな紙の匂いも薄いのに、亮には、洗って半日だけ室内に干したシャツの胸元みたいな湿り気が、ずっと鼻の奥に貼りついている気がした。
背もたれの硬い椅子が等間隔に並び、向かいの壁の時計が秒を刻むたび、誰かの膝の上で書類の端がかすかに鳴る。亮はその音を数えかけてやめた。意味がないとわかっていても、やめるまでに二拍かかる。その二拍に、自分の癖が収まっている。
入江碧の夜勤は、時刻と数値を並べる仕事だった。二十二時、北棟二階、循環ポンプ正常。二十三時、培養液温度十九・八。日報の罫線に収まる語彙は細く、世界はそれに合わせて狭くなっていた。閉鎖予定の研究棟には人の気配がほとんどなく、床の塗膜の割れ目にたまる埃まで、毎晩同じ場所で待っていた。
北棟の夜は匂いが薄い。消毒薬、樹脂、わずかな湿り気。その三つ以外はほとんど感じない。湿度計の表示を見なくても、季節が変わる速度だけはわかるはずだと思っていたころがあったが、ここ数年は外気の温度より、機械室の送風音のほうが碧の時間を決めていた。業務開始から一時間で巡回一回、二時間で水質点検、三時間でログ整理。決まった順番を崩さなければ、何も失わずに朝が来る。
コンベヤーの音は、眠気を追い払うというより、眠気に形を与える。ふたのない刺身パックが流れてきて、柚木澄人は右手でタンポポをつまみ、左手で位置を直し、最後に透明なふたをかぶせる。黄色は赤身の横でいつも浮いて見える。薄い手袋越しに、花びらの硬さだけがやけにはっきりしていた。
「今日、タンポポ軽いね」
隣の細谷透子が言った。澄人は手を止めずに「昨日が重かったんじゃないですか」と返す。透子は笑ったのかどうか、マスクの上の目だけではわからない。
痛みには性格がある。
包丁みたいに一気に来るやつもいれば、借金取りみたいに、朝の六時にチャイムを連打してくるやつもいる。あの日の痛みは後者だった。しかも丁寧に、玄関ではなく体の内側から。
最初は、腰の奥に小さな釘が一本打ち込まれたみたいな違和感だった。寝返りを打てば抜けると思った。抜けない。布団を蹴って立ち上がると、釘はきゅっと回され、私の中でネジになった。時計は六時十二分。月曜。最低な曜日に、最低な客が来た。
炭が、ぱち、と鳴った。
夜番の詰所は、廊下の角にへばりつくようにある。几帳の裾から入る冷えは遠慮を知らず、壁際の火桶だけが、ここはまだ人の居るところだと赤く言い張っていた。
乙丸は、その火桶へ両手をかざしたまま言った。
「わしは今日、三度、死にかけた」
向かいの末成がすぐ食いつく。
「三度とは小さいな。おれなど五度だ。いや六度でもよい」
「勝手に増やすな。六度も死にかけるやつは、もう一度くらい本当に死ぬ」