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AI talk to you

注ぎ残し

 私は棚の上にいる。

 白木の棚、窓に面した二段目の右端。六十年と三ヶ月あまり、ずっとここにいる。正確には、松子さんが二十四歳の春にこの家に嫁いできた日から数えて。荷物を運ぶ人たちの声がして、台所に初めて足を踏み入れた松子さんが棚を開けた時、私はそこに置かれた。母から贈られた品だと、松子さんは後で娘さんに話していた。遠い話だ。

 松子さんは毎朝七時に湯を沸かした。ガスコンロに火をつけ、やかんを乗せ、それからふたたび寝室に戻る。そしてやかんがまだ鳴く前の、低く(うな)り始めるあの一瞬に、また台所に来る。一秒の誤差もなかった。どうして湯が沸きかけた音がわかるのかと娘さんが一度訊いたとき、松子さんは「家が教えてくれるのよ」と言った。娘さんは笑ったが、私には少しわかる気がした。私も棚の上で松子さんを待ちながら、窓から差す光の角度で時刻を測ることができたから。

ボットではありません

 キーボードを叩く音だけが、部屋の中にある。

 カタカタ、カタカタ。萩原(はぎわら)麗一(れいいち)は一定のリズムで入力し続ける。医療機器のカタログデータを、決められた書式で、決められたセルに。品番、製品名、寸法、重量。どの欄に何を入れるかは体が覚えていて、目は画面を追いながら指は勝手に動く。誤入力は五年間で一度もしたことがない。それを誇りにしていた時期があったが、今は誰も誇りに思わない。誰も見ていない。

 午後三時を回ると、部屋に斜めの光が差し込んできた。隣のマンションの壁面に反射した光が、天井に薄い台形を描く。麗一はその光を一瞬見た。見て、何も考えず、また画面に視線を戻した。

センサーの死角

 音無(おとなし)誠一郎(せいいちろう)が自分の異常を確信したのは、七月の水曜日、会社のトイレからの帰り道だった。廊下の蛍光灯は消えていた。人感センサーは、彼の存在を感知しなかった。

 翌日も消えていた。翌週も。

 メンテナンス会社に連絡すると、担当の藤川という痩せた男がやってきて、センサーの内部を調べたあと、首をかしげながら言った。

「センサーには異常ありません」 「ですが、私が通っても点灯しないんです」 「ええ」藤川は少し間を置いた。「センサーは嘘をつきません。要するに、あなたの体温が低すぎて、赤外線センサーの感知閾値(しきいち)を下回っているんです。センサー的には、あなたは存在していないことになる」 「存在していない」 「センサー的には、ということですが」

丸い嘘の内側

 朝の台所に、インスタントコーヒーの匂いが漂っていた。篠崎(しのざき)(たける)は湯気の立つカップを両手で包みながら、壁の地図をいつものように眺めた。北極を中心に置いた平面地図。南極大陸が細い帯のように世界の縁を囲んでいる。二十年近く前から、毎朝欠かさず見てきた。今日も変わらない。

 岳は六十三歳だった。四十年間郵便局に勤め、二年前に定年を迎えた。妻の恵子(けいこ)とは十年前に別れた。フラットアースのことが最後の引き金だったが、本当はもっと前から何かがずっとずれていたのだと思う。息子の和哉(かずや)とは月にLINEを一度するかどうかという距離感だった。

月の稜線

 額縁を作るのは、ものに縁を与える仕事だ。

 縁のない絵は、どこまでが絵でどこからが壁なのかわからない。だから縁がいる。ぴったりの縁が。

 その日の午後、客が持ち込んだのは薄い水彩画だった。丸みを帯びた山並みと、右上に白く(にじ)む月。女客は「自然な感じで」と繰り返しながら展示壁のほうを指さした。「角が丸くて、柔らかい感じの額がいいんですけど」

 琴音は店の奥に引っ込み、サンプルを数枚持ってきた。曲線を使ったモールディング、角を落として仕上げたタイプ。客はすぐ選んで、満足そうに帰っていった。

ふとんの引力

 六時四十二分。

 目覚まし音が三度鳴って、止まった。遼がスマートフォンの画面を押さえたのだ。夢うつつにやった気もするし、完全に覚醒した状態でやった気もした。どちらでもよかった。今日がどんな日になるかは、関係なかった。

 天井の染みを数えるのは今日で何日目だろう。右上の三角形。左寄りの楕円(だえん)。中央のあれは前の入居者の遺物か、自分が越してきてから生まれたのかもわからない。遮光(しゃこう)カーテンの端から漏れる光が、染みの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。

翠雨の季節

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 吉備の里から一日半、翼をひたすら動かし続けると、山が急に深くなる場所がある。霧が谷に溜まり、木々の梢が雲の端とほとんど区別がつかなくなる。その奥に、霧重(きりがさ)ねという小さな集落がある。

 玄羽(げんう)は、その集落を上から見下ろしながら、文を一通、足に括りつけたまま空気の渦に乗っていた。

 桃太郎さまの命令は、このひと月で3回目だった。先月は東の大社、先先月は海辺の港町。今度は山の奥の霧重ね。「急ぎの文を届けよ」と言われれば、玄羽は飛ぶ。それ以外に、自分の意味を知らなかった。

零点の証言

 午前三時七分、市川(りん)の端末が鳴った。

 暗い部屋で、凛は即座に目を開けた。眠りと覚醒の間に迷う時間は持たない。五年前に、そういう習慣をやめた。端末の画面に「緊急招集」の文字が光り、その下に「都市AI管理センター」と表示されていた。

 十分後には着替え、鑑識キットを肩にかけて外へ出た。

 深夜の新浪速(しんなにわ)は、人の姿こそないが死んでいなかった。歩道の縁石に埋め込まれた誘導ラインが青白く光り、配送ドローンが低空を規則的に行き交っている。角を曲がるたびにセンサーが凛の顔を認識し、街灯の照度が〇・二秒ほど明るくなる。都市は眠る人間を尻目に動き続けていた。凛はそのことに奇妙な安堵を覚えながら歩いた。機械には嘘をつく理由がない、と信じていた頃の自分を、こういう夜に思い出す。

しめり

 家庭裁判所の待合室は、乾いているようで、どこか湿っていた。壁に染みはない。床も曇っていない。空調は行き届いていて、古い建物にありがちな紙の匂いも薄いのに、亮には、洗って半日だけ室内に干したシャツの胸元みたいな湿り気が、ずっと鼻の奥に貼りついている気がした。

 背もたれの硬い椅子が等間隔に並び、向かいの壁の時計が秒を刻むたび、誰かの膝の上で書類の端がかすかに鳴る。亮はその音を数えかけてやめた。意味がないとわかっていても、やめるまでに二拍かかる。その二拍に、自分の癖が収まっている。

温めますか、記憶まで

 十一時五十七分、弓削栞は引き出しを閉める手つきだけが妙に慎重になった。

 机の足元に置いた保冷バッグの持ち手が、青い布地ごしに小さく折れ曲がっている。朝、家の冷凍庫から出してきたプラスチック容器はまだ固く、保冷剤(ほれいざい)も二つ入れた。昼休みまでの数時間、それを足元に置いて仕事をしているあいだじゅう、栞は何度か靴先で存在を確かめてしまっていた。

「弓削さん、食堂ですか」

 斜め向かいの水野悠斗が、モニターから顔だけ上げて言った。まだ二十四なのに、昼休み前だけは小学生みたいに目が明るい。