朝の光は、蒔田悟郎の書斎にいつも同じ角度で射し込んだ。文机の上には万年筆立て、埃を薄くかぶった漢和辞典、そして二年間一度も引かれたことのない引き出し。悟郎はその引き出しに鍵をかけてはいない。ただ、開けないことにしているだけだった。
毎朝、髭を剃る。着古したカーディガンの袖口は擦り切れているが、繕う気力は湧かない。三十八年間、公立中学校で国語を教えた。生徒の作文に赤ペンを入れるとき、誤字も、行間に隠れた本音も、悟郎には手に取るようにわかった。それなのに、その目をどこに向ければいいのか、もうわからなくなっていた。退職と同時に「先生」という肩書きが消え、日常から居場所も消えた。妻の文枝が逝ってから二年、悟郎の一日はコンビニの店員への「ありがとう」、隣人への会釈だけで完結するようになった。誰とも深く言葉を交わさない日々は、静かで、そして底なしに軽かった。