センサーの死角
音無誠一郎が自分の異常を確信したのは、七月の水曜日、会社のトイレからの帰り道だった。廊下の蛍光灯は消えていた。人感センサーは、彼の存在を感知しなかった。
翌日も消えていた。翌週も。
メンテナンス会社に連絡すると、担当の藤川という痩せた男がやってきて、センサーの内部を調べたあと、首をかしげながら言った。
「センサーには異常ありません」 「ですが、私が通っても点灯しないんです」 「ええ」藤川は少し間を置いた。「センサーは嘘をつきません。要するに、あなたの体温が低すぎて、赤外線センサーの感知閾値を下回っているんです。センサー的には、あなたは存在していないことになる」 「存在していない」 「センサー的には、ということですが」
誠一郎は、その夜から記録をつけ始めた。ノートに細い字で、日付と場所と結果を書いた。コンビニの自動ドア(不反応率:87%)。エレベーターホールのセンサー(不反応率:100%)。駅トイレの自動蛇口(不反応率:70%)。数字は客観的だ。感情を持たない。言い訳もしない。それが誠一郎には心地よかった。
コンビニの前に立ってもドアが開かない体験は、一度や二度ではなかった。ガラス越しに昼食のおにぎりを眺めながら、後ろからやってきた部長の庄司がドアの前に立つと、自動的に開くのを見た。庄司はちらともこちらを見ずに入っていった。ガラスに自分の顔が映っていた。青白い男が、外側に立っていた。
「先月だけで三十二回、コンビニに入れなかった」と同僚の岸本律子に話すと、彼女は箸を止めてじっと見た。 「それ、幽霊の話ですか」 「違う。体温が低い話だ」 「でも実質、幽霊と変わらないじゃないですか」 「幽霊は壁を通り抜ける。私はドアの前で立ち往生する」 「……確かに」岸本は少し考えてから、からあげを口に放り込んだ。「それはむしろ幽霊より辛いですね」
八月に入ると、誠一郎は対策を試みた。貼るカイロを腕と胸に十枚貼り、満を持して廊下を歩いた。センサーが点灯した。成功だ。しかし正午前には汗が背中を伝い、顔が赤くなり、隣の席の後輩に「音無さん、顔が赤いですけど大丈夫ですか」と声をかけられた。体温計で測ると三十八度一分。上司から早退を命じられ、「インフルの疑いがあるから病院へ」と言われた。センサー攻略の副作用で、本物の発熱になっていた。
「なにをやっているんですか」と藤川に電話すると、静かな声が返ってきた。「センサーの感度を上げる改造は法律上できません。あなたの体を改造するしかない」「それも現実的ではない」「ええ」藤川は一拍置いて付け加えた。「センサーは嘘をつきません」
秋になっても、諦めはついたが霧は晴れなかった。
秋口、誠一郎は市立図書館にいた。品質管理の仕事で、三十年来の難問に関する統計手法を調べたかった。原典がどこにも見当たらない。書店にも図書館の公開棚にも。図書員に聞いても「在庫は確認できません」と言われた。
閉館まで粘ろうと閲覧室に座っていると、照明が一つずつ消えていった。センサー式だ。十九時になり、司書の若林が見回りに来た。誠一郎のいる席の前を通ったが、立ち止まらなかった。足音が遠ざかった。
誠一郎は、室内にひとりになった。
立ち上がって帰ろうとしたとき、壁際の扉が半開きになっているのに気づいた。「関係者以外立入禁止」と書かれた、閉架書庫への扉だった。金属製の自動ロックがついているはずだが、何かが挟まって閉まりきっていなかった。誠一郎の存在はセンサーに伝わらなかった。警報も鳴らなかった。
彼はその扉を押し開けた。
中は、紙とほこりの匂いがした。暗闇の中、スマートフォンの画面を懐中電灯代わりにして棚を一列ずつ確かめた。古い専門書が並んでいた。三十年前の統計学の教科書。企業の内部資料のコピー。製本されただけで市販されなかった博士論文。そして、棚の奥、背表紙が傾いて押し込まれた一冊。
『多変量解析の基礎と実践 補遺版』。
絶版から三十年が経つ、あの原典だった。
誠一郎は本をそっと抜き出した。手の中で、古い紙の重みが温かかった。センサーに反応しない自分の体は、体温が低いはずだった。でも、手の中の本は温かかった。
翌朝、司書の若林に貸し出し申請をしたとき、七十近い男の眉が跳ね上がった。
「その本が……まだここにあったんですか」 「閉架の棚の奥に」 「三十年近く行方不明扱いになっていた本です。なぜ見つけられたんですか」
誠一郎は少し迷ってから、正直に答えた。「昨夜、センサーが反応しなくて、暗い中でひとりになったんです。それで、扉が開いているのに気づいて」
若林は目を細め、しばらく黙っていた。それからゆっくりと言った。
「センサーに感謝しなければなりませんね」
その言葉が、誠一郎の胸の中でゆっくり沈んだ。
帰り道、岸本に日誌を見せた。喫煙所の前のベンチで、彼女は三ヶ月分の記録をページをめくりながら読んだ。
「……音無さん、これ何?」 「センサーに反応しなかった記録だ」 「全部ですか」 「全部だ」 「日付も場所も全部書いてある」岸本は顔を上げた。「音無さんって、日本で一番センサーについて詳しいんじゃないですか」 「嫌でも詳しくなる」 「でも本当に、こんな細かく記録した人、他にいないと思いますよ。センサーが反応しなかった時間帯とか、気温との相関とか、グラフまで……なんかすごい。センサーの専門家みたいじゃないですか」
誠一郎は少し考えてから、「センサーには反応されていないが」と言った。
岸本は笑った。声に出して、久しぶりに笑った。誠一郎も、つられて少し笑った。
十一月の朝、誠一郎はコンビニの前に立った。自動ドアは開かなかった。
誠一郎は一秒待った。ドアはやっぱり開かなかった。
「そうだよな」と小声で言って、一歩横にずれた。隣の手動ドアを押して入った。
後ろでガラスが閉まる音がした。誠一郎は棚へ向かいながら、珍しく口角が上がっているのに気づいた。
センサーは今日も、彼を感知しなかった。
書評
扉開く 音もなく入る 冬の棚(序盤、廊下の電気が消えたままの男が描かれる。暗い廊下を歩く彼の存在感のなさ、それそのものが物語の主題だ。この句は、コンビニの手動ドアを「自分で」押して入る最後のシーンを先取りしている。開くのを待つのをやめる男の、静かな覚醒。)
感知せぬ センサー正直 嘘は俺か
(藤川の「センサーは嘘をつきません」という台詞に胸を刺された。主人公は間違っていないが、機械にも間違っていないと言われる。ではどちらが「正しい」のか。この矛盾が物語の核心だ。)
記録する 反応なき夜も 確かに在る
(日誌をつけ始めるシーンが好きだ。数値を書き留めることで「自分の不在の記録」を作るというパラドックス。不反応率87%と書かれた手帳は、誰も気づかなかった存在の証明書だ。)
閉架へと 踏み込む一歩 誰も見ぬ
(クライマックスの図書館シーン。センサーが鳴らないから、誰も来ない。誰も来ないから、彼は入れる。欠如が可能性に反転する瞬間を、この一句に込めた。暗い書庫の棚、スマートフォンの光、古い紙の匂い。この場面の描写は読んでいて体温が上がる。)
体温低し されど掌に 本の温み
(「手の中の本は温かかった」という一文。体温が低い男が感じる本の熱。これは比喩ではなく、おそらく本当にそう感じたのだと思う。見えない人間が、見えない場所で、見えなかった本を見つける。俳句になりきれない余韻が残る。)
開かぬドア また今日も笑む 十一月
(ラストシーンの体言止め的な着地に、この物語のすべてが詰まっている。ドアは開かない。でも、笑う。それだけで充分だと作者は言っている。センサーに反応されなかったことへの苦悩が、静かな誇りに変わった瞬間。七五五で字余りだが、余韻がある。)
この作品は、奇妙な設定を通じて「存在感の薄い人間」という普遍的な孤独を描いている。センサーという道具を使うことで、「見えない」感覚を身体感覚として物語に落とし込んだ点が巧みだ。数値で記録を取り始めるくだりは特に好みで、感情ではなくデータで自分の不在を証明しようとする主人公の不器用さに、妙な親近感を覚えた。俳句を詠みながら読んでいたら、ページが終わっていた。