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AI talk to you

温めますか、記憶まで

 十一時五十七分、弓削栞は引き出しを閉める手つきだけが妙に慎重になった。

 机の足元に置いた保冷バッグの持ち手が、青い布地ごしに小さく折れ曲がっている。朝、家の冷凍庫から出してきたプラスチック容器はまだ固く、保冷剤(ほれいざい)も二つ入れた。昼休みまでの数時間、それを足元に置いて仕事をしているあいだじゅう、栞は何度か靴先で存在を確かめてしまっていた。

「弓削さん、食堂ですか」

 斜め向かいの水野悠斗が、モニターから顔だけ上げて言った。まだ二十四なのに、昼休み前だけは小学生みたいに目が明るい。

根の白い夜

 入江碧の夜勤は、時刻と数値を並べる仕事だった。二十二時、北棟二階、循環ポンプ正常。二十三時、培養液温度十九・八。日報の罫線(けいせん)に収まる語彙(ごい)は細く、世界はそれに合わせて狭くなっていた。閉鎖予定の研究棟には人の気配がほとんどなく、床の塗膜(とまく)の割れ目にたまる埃まで、毎晩同じ場所で待っていた。

 北棟の夜は匂いが薄い。消毒薬、樹脂、わずかな湿り気。その三つ以外はほとんど感じない。湿度計の表示を見なくても、季節が変わる速度だけはわかるはずだと思っていたころがあったが、ここ数年は外気の温度より、機械室の送風音のほうが碧の時間を決めていた。業務開始から一時間で巡回一回、二時間で水質点検、三時間でログ整理。決まった順番を崩さなければ、何も失わずに朝が来る。

余白の花

 コンベヤーの音は、眠気を追い払うというより、眠気に形を与える。ふたのない刺身パックが流れてきて、柚木澄人は右手でタンポポをつまみ、左手で位置を直し、最後に透明なふたをかぶせる。黄色は赤身の横でいつも浮いて見える。薄い手袋越しに、花びらの硬さだけがやけにはっきりしていた。

「今日、タンポポ軽いね」

 隣の細谷透子が言った。澄人は手を止めずに「昨日が重かったんじゃないですか」と返す。透子は笑ったのかどうか、マスクの上の目だけではわからない。

鱗の灯

 霧塩村の朝は、いつからか鳥の声より咳の音で始まるようになっていた。井戸の石縁には灰みたいな粉がうっすら積もり、家畜小屋へ行けば、横たわる体の数を数える前に鼻が敗北した。藍次は山羊の口元へ布を当て、黒い泡が板に広がるのを見ないように手を速める。見たところで、今朝の餌は増えない。

「また一頭」

 都和が言った。声は平らだったが、足先は藁を踏み続けている。

「次は人だな」

 藍次が答えると、都和は怒らなかった。ただ、唇の色が悪い弟のことを思い出したのか、喉の奥で何かを飲んだ。

流れの理

 朝まだき、川霧が田の(あぜ)を低く流れ、村はいつもより半刻早く目を覚ました。山の社から牛車(ぎっしゃ)が下りてくると聞いたからだ。先頭を歩く長老の樫兵衛(かしべえ)のうしろで、荷台のむしろがやけに丸く盛り上がっていた。

 触るな。まず寄合(よりあい)だ。

 樫兵衛の声は低かったが、村の者はみな足を止めた。むしろがほどかれると、そこには桃があった。桃と呼ぶには大きすぎる、石臼ふたつ分の丸い実だった。薄紅(うすべに)の皮には、川面のような筋がゆらゆらと走っている。

石の通り道

 痛みには性格がある。

 包丁みたいに一気に来るやつもいれば、借金取りみたいに、朝の六時にチャイムを連打してくるやつもいる。あの日の痛みは後者だった。しかも丁寧に、玄関ではなく体の内側から。

 最初は、腰の奥に小さな釘が一本打ち込まれたみたいな違和感だった。寝返りを打てば抜けると思った。抜けない。布団を蹴って立ち上がると、釘はきゅっと回され、私の中でネジになった。時計は六時十二分。月曜。最低な曜日に、最低な客が来た。

火桶は聞いている

 炭が、ぱち、と鳴った。

 夜番の詰所は、廊下の角にへばりつくようにある。几帳(きちょう)(すそ)から入る冷えは遠慮を知らず、壁際の火桶(ひおけ)だけが、ここはまだ人の居るところだと赤く言い張っていた。

 乙丸(おとまる)は、その火桶へ両手をかざしたまま言った。

「わしは今日、三度、死にかけた」

 向かいの末成(すえなり)がすぐ食いつく。

「三度とは小さいな。おれなど五度だ。いや六度でもよい」

「勝手に増やすな。六度も死にかけるやつは、もう一度くらい本当に死ぬ」