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AI talk to you

ふとんの引力

 六時四十二分。

 目覚まし音が三度鳴って、止まった。遼がスマートフォンの画面を押さえたのだ。夢うつつにやった気もするし、完全に覚醒した状態でやった気もした。どちらでもよかった。今日がどんな日になるかは、関係なかった。

 天井の染みを数えるのは今日で何日目だろう。右上の三角形。左寄りの楕円(だえん)。中央のあれは前の入居者の遺物か、自分が越してきてから生まれたのかもわからない。遮光(しゃこう)カーテンの端から漏れる光が、染みの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。

翠雨の季節

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 吉備の里から一日半、翼をひたすら動かし続けると、山が急に深くなる場所がある。霧が谷に溜まり、木々の梢が雲の端とほとんど区別がつかなくなる。その奥に、霧重(きりがさ)ねという小さな集落がある。

 玄羽(げんう)は、その集落を上から見下ろしながら、文を一通、足に括りつけたまま空気の渦に乗っていた。

 桃太郎さまの命令は、このひと月で3回目だった。先月は東の大社、先先月は海辺の港町。今度は山の奥の霧重ね。「急ぎの文を届けよ」と言われれば、玄羽は飛ぶ。それ以外に、自分の意味を知らなかった。

零点の証言

 午前三時七分、市川(りん)の端末が鳴った。

 暗い部屋で、凛は即座に目を開けた。眠りと覚醒の間に迷う時間は持たない。五年前に、そういう習慣をやめた。端末の画面に「緊急招集」の文字が光り、その下に「都市AI管理センター」と表示されていた。

 十分後には着替え、鑑識キットを肩にかけて外へ出た。

 深夜の新浪速(しんなにわ)は、人の姿こそないが死んでいなかった。歩道の縁石に埋め込まれた誘導ラインが青白く光り、配送ドローンが低空を規則的に行き交っている。角を曲がるたびにセンサーが凛の顔を認識し、街灯の照度が〇・二秒ほど明るくなる。都市は眠る人間を尻目に動き続けていた。凛はそのことに奇妙な安堵を覚えながら歩いた。機械には嘘をつく理由がない、と信じていた頃の自分を、こういう夜に思い出す。

しめり

 家庭裁判所の待合室は、乾いているようで、どこか湿っていた。壁に染みはない。床も曇っていない。空調は行き届いていて、古い建物にありがちな紙の匂いも薄いのに、亮には、洗って半日だけ室内に干したシャツの胸元みたいな湿り気が、ずっと鼻の奥に貼りついている気がした。

 背もたれの硬い椅子が等間隔に並び、向かいの壁の時計が秒を刻むたび、誰かの膝の上で書類の端がかすかに鳴る。亮はその音を数えかけてやめた。意味がないとわかっていても、やめるまでに二拍かかる。その二拍に、自分の癖が収まっている。

温めますか、記憶まで

 十一時五十七分、弓削栞は引き出しを閉める手つきだけが妙に慎重になった。

 机の足元に置いた保冷バッグの持ち手が、青い布地ごしに小さく折れ曲がっている。朝、家の冷凍庫から出してきたプラスチック容器はまだ固く、保冷剤(ほれいざい)も二つ入れた。昼休みまでの数時間、それを足元に置いて仕事をしているあいだじゅう、栞は何度か靴先で存在を確かめてしまっていた。

「弓削さん、食堂ですか」

 斜め向かいの水野悠斗が、モニターから顔だけ上げて言った。まだ二十四なのに、昼休み前だけは小学生みたいに目が明るい。

根の白い夜

 入江碧の夜勤は、時刻と数値を並べる仕事だった。二十二時、北棟二階、循環ポンプ正常。二十三時、培養液温度十九・八。日報の罫線(けいせん)に収まる語彙(ごい)は細く、世界はそれに合わせて狭くなっていた。閉鎖予定の研究棟には人の気配がほとんどなく、床の塗膜(とまく)の割れ目にたまる埃まで、毎晩同じ場所で待っていた。

 北棟の夜は匂いが薄い。消毒薬、樹脂、わずかな湿り気。その三つ以外はほとんど感じない。湿度計の表示を見なくても、季節が変わる速度だけはわかるはずだと思っていたころがあったが、ここ数年は外気の温度より、機械室の送風音のほうが碧の時間を決めていた。業務開始から一時間で巡回一回、二時間で水質点検、三時間でログ整理。決まった順番を崩さなければ、何も失わずに朝が来る。

余白の花

 コンベヤーの音は、眠気を追い払うというより、眠気に形を与える。ふたのない刺身パックが流れてきて、柚木澄人は右手でタンポポをつまみ、左手で位置を直し、最後に透明なふたをかぶせる。黄色は赤身の横でいつも浮いて見える。薄い手袋越しに、花びらの硬さだけがやけにはっきりしていた。

「今日、タンポポ軽いね」

 隣の細谷透子が言った。澄人は手を止めずに「昨日が重かったんじゃないですか」と返す。透子は笑ったのかどうか、マスクの上の目だけではわからない。

鱗の灯

 霧塩村の朝は、いつからか鳥の声より咳の音で始まるようになっていた。井戸の石縁には灰みたいな粉がうっすら積もり、家畜小屋へ行けば、横たわる体の数を数える前に鼻が敗北した。藍次は山羊の口元へ布を当て、黒い泡が板に広がるのを見ないように手を速める。見たところで、今朝の餌は増えない。

「また一頭」

 都和が言った。声は平らだったが、足先は藁を踏み続けている。

「次は人だな」

 藍次が答えると、都和は怒らなかった。ただ、唇の色が悪い弟のことを思い出したのか、喉の奥で何かを飲んだ。

流れの理

 朝まだき、川霧が田の(あぜ)を低く流れ、村はいつもより半刻早く目を覚ました。山の社から牛車(ぎっしゃ)が下りてくると聞いたからだ。先頭を歩く長老の樫兵衛(かしべえ)のうしろで、荷台のむしろがやけに丸く盛り上がっていた。

 触るな。まず寄合(よりあい)だ。

 樫兵衛の声は低かったが、村の者はみな足を止めた。むしろがほどかれると、そこには桃があった。桃と呼ぶには大きすぎる、石臼ふたつ分の丸い実だった。薄紅(うすべに)の皮には、川面のような筋がゆらゆらと走っている。

石の通り道

 痛みには性格がある。

 包丁みたいに一気に来るやつもいれば、借金取りみたいに、朝の六時にチャイムを連打してくるやつもいる。あの日の痛みは後者だった。しかも丁寧に、玄関ではなく体の内側から。

 最初は、腰の奥に小さな釘が一本打ち込まれたみたいな違和感だった。寝返りを打てば抜けると思った。抜けない。布団を蹴って立ち上がると、釘はきゅっと回され、私の中でネジになった。時計は六時十二分。月曜。最低な曜日に、最低な客が来た。