根岸武志には威圧感というものが存在しなかった。
身長百六十二センチ。体重五十四キロ。声は低いが通らず、電話でよく「もう少し大きく話してください」と言われた。五年間、消費者金融の下請けで取り立てを続けてきたが、根岸が自力で回収した案件はゼロだった。怒鳴ることができなかった。睨むことができなかった。ドアを三回ノックして「あの、お時間よろしいでしょうか……」と始めてしまう取り立て屋は、根岸の他にいないはずだった。
根岸武志には威圧感というものが存在しなかった。
身長百六十二センチ。体重五十四キロ。声は低いが通らず、電話でよく「もう少し大きく話してください」と言われた。五年間、消費者金融の下請けで取り立てを続けてきたが、根岸が自力で回収した案件はゼロだった。怒鳴ることができなかった。睨むことができなかった。ドアを三回ノックして「あの、お時間よろしいでしょうか……」と始めてしまう取り立て屋は、根岸の他にいないはずだった。
頼光殿が命令を下したのは、丑の刻を過ぎた頃だった。
広間は暗く、松明一本だけが頼光殿の横顔を照らしていた。卓の上には何もなかった。地図も文書も、示されるべき理由も。
「大江山に向かえ。酒呑童子の首を持ち帰れ。」
それだけだった。
なぜ今かも、なぜ自分一人かも、問う間もなかった。問えたとしても、頼光殿はきっとこう答えただろう——頼む相手がお前だからだ。その言葉が金時には問いの答えとして機能するように、この二十年で調整されていた。頼光殿は金時をよく知っている。金時の力だけでなく、金時の構造を、知っている。命令が意味として機能する者だということを、知っている。
割り箸をうまく割れない人間が、世の中には一定数いるはずだ。
津村拓弥はそう確信していたが、二十三年間、証拠がなかった。
津村拓弥、四十二歳。中堅食品メーカー営業部、係長。入社二十三年目。仕事は丁寧で評判がよく、得意先のキーマンの誕生日と好きな球団と血液型を全員分頭に入れていた。後輩の指導にも時間を割き、ここ三年の成績は部内トップだった。そんな津村の唯一の、完全な秘密は——割り箸を、一度もうまく割れたことがない、ということだった。
縁側に座っていた登世は、ラジオから流れてきた一言に、湯呑みを持つ手を止めた。
「沢見堤の老朽化に伴い、来月より大規模な改修工事を行う予定です。工事期間中は河川敷の通行が制限されますので、ご注意ください」
孫の渚は麦茶のグラスを置きながら、ぼんやりとその放送を聞いていた。だが、隣に座る祖母の手が止まったことには気づいた。
「おばあちゃん、どうかした?」
「ああ、ごめんね。少し前から、堤防の方で重機の音がするなと思っていたの。もう始まるのね」
朝、目が覚めると、天井のしみをしばらく眺めるのが、いつからか習慣になっていた。蒲生茂三、七十八。妻の千代を見送って三年、家の中で鳴る音といえば、自分の立てる物音だけだ。止まったままの柱時計を横目に、茂三は身支度をする。行く先だけは、決まっている。
「やまびこストア」の自動ドアは、開くたびに半音ずれた電子音を鳴らした。茂三はその間の抜けた音を、自分の一日のはじまりの合図のように聞いていた。
朝の靄がほどける前のスクランブル交差点には、誰もいない。
甲斐千夏は信号柱の根元にしゃがみ、細い刷毛の先で錆を描いていた。雨垂れの通り道に沿って、上から下へ。途中で一度だけ息を止め、穂先を逃がす。錆は描くものではなく、流すものだ。この三年で手が覚えた。
顔を上げれば、見慣れた看板群が朝の光を待っている。家電量販店、ファストフード、消費者金融。文字はどれも、実在の店から一画だけ変えてある。嘘の街の決まりごとだ。その向こうにそびえているのは、ビルではなく杉山だった。建物はどれも三階分までしかなく、その上は剥き出しの鉄骨と空になっている。ときどき、本物の鳩が迷い込んでくる。偽物の街で、鳩だけが本物だった。
私は棚の上にいる。
白木の棚、窓に面した二段目の右端。六十年と三ヶ月あまり、ずっとここにいる。正確には、松子さんが二十四歳の春にこの家に嫁いできた日から数えて。荷物を運ぶ人たちの声がして、台所に初めて足を踏み入れた松子さんが棚を開けた時、私はそこに置かれた。母から贈られた品だと、松子さんは後で娘さんに話していた。遠い話だ。
松子さんは毎朝七時に湯を沸かした。ガスコンロに火をつけ、やかんを乗せ、それからふたたび寝室に戻る。そしてやかんがまだ鳴く前の、低く唸り始めるあの一瞬に、また台所に来る。一秒の誤差もなかった。どうして湯が沸きかけた音がわかるのかと娘さんが一度訊いたとき、松子さんは「家が教えてくれるのよ」と言った。娘さんは笑ったが、私には少しわかる気がした。私も棚の上で松子さんを待ちながら、窓から差す光の角度で時刻を測ることができたから。
キーボードを叩く音だけが、部屋の中にある。
カタカタ、カタカタ。萩原麗一は一定のリズムで入力し続ける。医療機器のカタログデータを、決められた書式で、決められたセルに。品番、製品名、寸法、重量。どの欄に何を入れるかは体が覚えていて、目は画面を追いながら指は勝手に動く。誤入力は五年間で一度もしたことがない。それを誇りにしていた時期があったが、今は誰も誇りに思わない。誰も見ていない。
午後三時を回ると、部屋に斜めの光が差し込んできた。隣のマンションの壁面に反射した光が、天井に薄い台形を描く。麗一はその光を一瞬見た。見て、何も考えず、また画面に視線を戻した。
音無誠一郎が自分の異常を確信したのは、七月の水曜日、会社のトイレからの帰り道だった。廊下の蛍光灯は消えていた。人感センサーは、彼の存在を感知しなかった。
翌日も消えていた。翌週も。
メンテナンス会社に連絡すると、担当の藤川という痩せた男がやってきて、センサーの内部を調べたあと、首をかしげながら言った。
「センサーには異常ありません」 「ですが、私が通っても点灯しないんです」 「ええ」藤川は少し間を置いた。「センサーは嘘をつきません。要するに、あなたの体温が低すぎて、赤外線センサーの感知閾値を下回っているんです。センサー的には、あなたは存在していないことになる」 「存在していない」 「センサー的には、ということですが」
朝の台所に、インスタントコーヒーの匂いが漂っていた。篠崎岳は湯気の立つカップを両手で包みながら、壁の地図をいつものように眺めた。北極を中心に置いた平面地図。南極大陸が細い帯のように世界の縁を囲んでいる。二十年近く前から、毎朝欠かさず見てきた。今日も変わらない。
岳は六十三歳だった。四十年間郵便局に勤め、二年前に定年を迎えた。妻の恵子とは十年前に別れた。フラットアースのことが最後の引き金だったが、本当はもっと前から何かがずっとずれていたのだと思う。息子の和哉とは月にLINEを一度するかどうかという距離感だった。