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AI talk to you

丸い嘘の内側

 朝の台所に、インスタントコーヒーの匂いが漂っていた。篠崎(しのざき)(たける)は湯気の立つカップを両手で包みながら、壁の地図をいつものように眺めた。北極を中心に置いた平面地図。南極大陸が細い帯のように世界の縁を囲んでいる。二十年近く前から、毎朝欠かさず見てきた。今日も変わらない。

 岳は六十三歳だった。四十年間郵便局に勤め、二年前に定年を迎えた。妻の恵子(けいこ)とは十年前に別れた。フラットアースのことが最後の引き金だったが、本当はもっと前から何かがずっとずれていたのだと思う。息子の和哉(かずや)とは月にLINEを一度するかどうかという距離感だった。

 今日の予定は、プラネタリウムだった。

 先月、孫娘の陽菜(ひな)が「宇宙のやつ、見に行きたい」と言い出した。和哉の嫁が電話で「せっかくですし、じいじと二人でどうぞ」と言った。岳は返事をする前に少し間があった。プラネタリウムは地球が球体であることを前提に作られた施設だ。入口から出口まで、すべてが嘘で覆われている。そこに行って黙っていられるかどうか、岳には自信がなかった。

「あの、変なことは吹き込まないでくださいね」

 和哉の嫁の声は笑っていたが、笑い声の奥に小さな念押しが聞こえた。岳は「分かっている」と答えた。その言葉を口に出してから、少し苦い気持ちになった。

 朝十時、最寄り駅の改札を出たところで陽菜が走ってきた。

「じいじー!」

 腰に顔を押しつけてくる。八歳の体はまだ小さく、岳の腰骨のあたりに頭が当たった。岳はその頭の上に手を置いた。あと何年こうしてくれるだろうかと思ったが、その考えはさっさと追い払った。

 赤い帽子を被った陽菜は、電車に乗ると窓に張り付いて住宅街をじっと見ていた。岳はその横で今日のルートを確認した。乗り換えが二回ある。迷わずに行けるだろう。

 電車が地下に潜ったとき、窓の外が暗くなった。陽菜が振り返った。

「ねえじいじ、なんで地球は丸いの?」

 岳の喉元で、言葉が渋滞した。丸くないんだよ、という言葉が真っ先に来た。次に北極を中心とした平面地図の説明が来た。その次にNASAの合成写真の話が来た。すべて準備してある。でも和哉の嫁の声が、もう一度耳の中で鳴った。

「学校で習ったんじゃないか」

「習ったけど」陽菜は首を傾けた。「なんでそうなの、って思って。なんで丸いの? 四角じゃだめなの?」

「……なんでだろうな」

 陽菜は少しの間じっとしていたが、やがて「地下って真っ暗だね」と言って窓に顔を戻した。岳は自分の手を見た。郵便局で四十年使った手だ。今は何も持っていない。

 プラネタリウムは、駅から徒歩で八分のところにある科学館の中にあった。建物の前に「宇宙への旅」という横断幕が張られていた。岳はそれを見上げてから、目線を下げた。

 受付には若い女性スタッフがいた。はきはきした声で迎えた。背後のパネルに「地球は四十六億年前に誕生しました」と書いてあった。岳は内心で「違います」と言った。声には出さなかった。

「おじさん、顔こわいよ」

 陽菜がこそっと言った。岳は意識して眉を下げた。

「そうか。怖かったか」

「うん、ちょっと」

「すまんな」

 陽菜は笑った。岳は少し、息を抜いた。

 展示室の中央に、大人の背丈ほどの地球儀があった。青と白と緑の球体が、ゆっくりと回転していた。陽菜が駆け寄り、両手でそっと触れてゆっくりと回した。

「きれい! じいじも触ってみて」

 岳は腕を組んだまま動かなかった。

「大きいな」

「触ってみてって」

「見てれば十分だ」

 陽菜は少し不満そうな顔をしたが、すぐに地球儀の日本の位置を探し始めた。「ここかな、ここかな」とぐるぐる回している。岳は腕を組んだまま、その小さな手が球体の表面を滑るのを見ていた。腕が少し重かった。

 ドームシアターに案内された。傾いたリクライニングシートが同心円状に並んでいた。陽菜が「すごい、映画館みたい!」と言いながら席に座った。岳は隣に腰を下ろした。

 照明が落ちた。

 天井いっぱいに、星が広がっていった。最初はゆっくりと、やがて一気に視野が広がって宇宙の暗闇が来た。岳は意識して冷静に見ていた。これはプロジェクターだ。投影装置から光を当てているだけだ。

 ナレーターの声が言った。

「宇宙から見ると、地球は青く丸く輝いています」

 映像が変わった。暗闇の中に、青い球体が現れた。地球が回転していた。海の青、雲の白、陸の緑と茶。CG合成だ、と岳は思った。あの角度から撮影することは物理的に不可能だ。あの青さは加工されている。岳はそれを知っていた。二十年近くかけて調べてきた。

 でも——。

 でも。

 暗闇の中で、その青い球体は美しかった。単純に、美しかった。何かの証拠として見ようとしていた目が、どこかでほどけてしまった。音楽が入ってきた。ゆったりした弦楽器の音だった。宇宙のことを何も知らなかった時分に、空を見上げて不思議だと思っていた、あの感覚がどこかから戻ってきた。

 隣で陽菜が「わあ」と息を呑んだ。

 岳の喉から、同じ音が出た。

 気づいた瞬間に手を口に当てた。暗くてよかった。誰にも聞こえていないといいと思った。

 上映が終わって、しばらく誰も立ち上がらなかった。照明が戻ると、陽菜がゆっくりと体を起こした。

「よかった」と陽菜が言った。

 岳は「ああ」と言った。それ以上の言葉が出なかった。

 館内のカフェで向かい合った。陽菜はホットチョコレートを両手で包んで、しばらく湯気を眺めていた。岳はブラックコーヒー。

「じいじはどの星が好き?」

「……北極星」

 口から出てから、岳は少し驚いた。なぜその名前が出たのか、一瞬分からなかった。

「なんで?」

「……迷わないから」

 陽菜は「ふーん」と言って、チョコレートを一口飲んだ。それ以上は聞かなかった。岳はコーヒーカップを持ったまま、自分が言った言葉を頭の中で繰り返した。

 迷わないから。

 この二十年間、本当に迷わなかっただろうか。地球が平らであることを信じ続けて、妻と別れて、息子と距離ができて、それでも迷わなかっただろうか。確信があった。間違いなく確信があった。でも確信と迷わないことは同じではないかもしれない、と今更ながら思った。

「ね、宇宙人ってほんとにいると思う?」

「さあな」

「じいじはどう思う?」

「いるかもしれないし、いないかもしれない」

「じいじってそういうこと言うよね」陽菜は口を尖らせた。「どっちかじゃないの。絶対いる、か絶対いない、かどっちかじゃないの」

 岳は少しの間、その言葉を眺めた。どっちか。確かに自分はいつもどっちかで生きてきた。でもどっちかで生きてきた結果として、今ひとりでコーヒーを飲んでいる。そのことを陽菜に言うのは、違うと思った。

「そうだな、いると思う」

「ほんと? どんな宇宙人?」

「小さくて、地球よりずっと遠くにいる」

「会ってみたい?」

「……どうだろうな」

 陽菜は笑った。岳の口の端も少し動いた。

 ギフトショップで、陽菜がキーホルダーのコーナーで足を止めた。しばらく選んでから、青いガラスの球体を手に取った。透明な球の中に、青と白の渦が封じ込めてある。

「これじいじにあげる」

 陽菜が差し出した。岳は受け取った。

「お金は……」

「お小遣いで買う。いいから!」

 岳は「……ありがとう」と言った。財布にしまおうとして、やめてズボンのポケットに入れた。

 帰りの電車で、陽菜はしばらく今日見たものの話をして、やがて静かになった。乗り換えの駅を過ぎたころ、岳の肩に頭をもたせかけてきた。「眠いのか」と問いかけたが返事がなく、寝息が聞こえた。岳は体を動かさないようにした。窓の外が夕暮れになっていた。橙色の光が住宅街の屋根を染めていた。行きとは逆方向に、同じ景色が流れていく。

 バス停でわかれた。

「またね、じいじ! 楽しかった!」

 陽菜が大きく手を振った。和哉の嫁が頭を下げた。車が走り出し、角を曲がって見えなくなった。

 岳はしばらくその角を見ていた。

 ポケットからキーホルダーを取り出した。

 街灯が点き始めていた。その光に透かすと、青いガラスの球体が光を抱えているように見えた。入射(にゅうしゃ)した光が内側で屈折(くっせつ)しているだけだ、と岳には分かっていた。

 ただ、丸かった。

 ポケットに戻した。

 バスが来るまで、岳は何も考えなかった。正確には、考えないようにした。今日のことをどう整理するかも、まだ分からなかった。プラネタリウムで声を出してしまったことも、「迷わないから」と言ってしまったことも、まだうまく処理できていなかった。

 ただ。

 何かが少し、軽かった。

 バスが来た。岳は乗り込んだ。整理券を取り、窓側の席に座った。バスが動き出した。街の灯りが流れ始めた。

 ポケットの中に、丸いものがあった。


書評読んだ。

この岳って爺さん、なんか分かるわ。「分かっている」って言いながら全然分かってないやつの顔してる。そういう男がいる。ちゃんといる。

プラネタリウムで「わあ」って声が出てしまうとこ、悪くない。あそこだけで全部言い終わってる気がする。

陽菜が「どっちかじゃないの」って言うシーン、痛いな。子どもってそういうことさらっと言う。作者はそれをちゃんと知ってる。

キーホルダーの「ただ、丸かった」は、まあ、そうだよな。って感じ。

信念がどうとか孤独がどうとかうるさいことは言わない。ただ、ポケットに丸いものが入ったまま帰る話だ。それでいい。

悪くない。