六時四十二分。
目覚まし音が三度鳴って、止まった。遼がスマートフォンの画面を押さえたのだ。夢うつつにやった気もするし、完全に覚醒した状態でやった気もした。どちらでもよかった。今日がどんな日になるかは、関係なかった。
天井の染みを数えるのは今日で何日目だろう。右上の三角形。左寄りの楕円。中央のあれは前の入居者の遺物か、自分が越してきてから生まれたのかもわからない。遮光カーテンの端から漏れる光が、染みの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「今日こそ、ちゃんと起きよう」
声に出してみた。声は部屋に吸い込まれた。どこにも届かなかった。三ヶ月、毎朝同じ台詞を言っている。言うたびに少しずつ言葉の形が崩れていく気がしたが、崩れきるには至っていなかった。まだ形を保っていた。それが救いなのか問題なのか、よくわからなかった。
机の上には履歴書の用紙が三枚、書きかけのまま重なっていた。日付欄に書いた「2026年3月」の数字が、もう二ヶ月前のものになっている。転職エージェントからのメールは未読が十四件。「ご登録情報の確認をお願いいたします」から始まるものと「あなたに合う求人が届いています」という件名のものが、半々ずつ並んでいるはずだ。全部、後で見ようと思ったまま、後でが来ない。
チカ、と通知音がした。
スマートフォンの画面が光った。遼は目だけで画面を見ようとした。遠かった。しかたなく腕を布団の外に伸ばして、手元に引き寄せた。
差出人の名前を見て、息が止まった。
神崎 朔。
三年ぶりか、四年か。大学を卒業してすぐ、朔はロンドンへ渡った。国際NGOに入り、ときどき写真を送ってきた。古い街並みと、笑顔の朔と、見知らぬ人たち。去年の正月のあいさつを最後に、互いに音信不通に近い状態が続いていた。
メッセージは短かった。
「久しぶり! 東京に来てる。会える?」
それだけだった。時刻は六時四十六分。どこかで朔の朝が動いている。ホテルの朝食を食べているかもしれないし、もう出かけているかもしれない。遼はスマートフォンを胸の上に伏せた。
返事をしなくていい理由を、まず三つ考えた。
一、自分は今、そういう状態じゃない。何かを説明できる状態じゃない。二、どうせすぐロンドンに戻るんだろう。せわしない再会になるだけだ。三、このざまを見せたくない。三ヶ月、外に出られなかった人間だと知られたくない。
次に、返事をした方がいい理由を考えようとした。
一。
一番目が、出てこなかった。
目を閉じると、あの日の天井が見えた。会議室の白い天井。蛍光灯の光が均等すぎて、逃げ場のない明るさだった。
「奥野、これ間違ってるよ。また?」
板垣係長の声を、今でも正確に再現できる。責めているのか確認しているのか判断できない声調で、係長は言葉を続けた。「うちのチームが今期、同じ種類のミスを何回やったか、集計してみようか。エクセルに記録しておいてもいいかもしれないね。どう思う、奥野くん」
どう思う、と聞かれた。
「申し訳ありません」と遼は言った。どう思うに対して申し訳ありませんを返すことの奇妙さを、そのときはすでに考える余裕がなかった。隣の席の後輩が目を伏せた。その目が苦しかった。見られているのが苦しいのか、見られていないのが苦しいのか、判別できなかった。
廊下のトイレの個室。鍵を回して座ったまま、外で誰かが電話している声が聞こえた。その声がいつの間にか遠ざかった。膝の上に手を置いて、呼吸の手順を考えていた。呼吸は自動でできるはずなのに、なぜか意識しないとできなくなっていた。泣けば楽になるとよく聞くが、涙の出し方もわからなくなっていた。
翌週、退職届を出した。理由欄に「一身上の都合」と書くのに、ペンが三回止まった。一身上の都合。この六文字の中に何が入っているか、誰にも言わなかった。言う言葉を持っていなかったし、言ったところで何かが変わるとも思えなかった。人事の女性が「お気をつけて」と言った。笑顔だった。遼も笑顔を返した。
大学二年のとき、朔と夜の公園のベンチで話したことがある。
都内の大学のそばにある、小さな公園だった。遅い時間で、ベンチに座っているのは二人だけだった。コンビニで買ったコーラとポテトチップスを分けながら、特に目的もなく話し続けた。
「遼は何がしたい?」と朔が聞いた。
「分からない。でも、ちゃんとしたい」と遼は答えた。一秒も迷わなかった。
「ちゃんとって何?」と朔は聞いた。哲学的な問いかけのように言ったのではなく、純粋に知りたいという顔で。
少し間が空いた。
「……分からない」
「うわ、完全に分かんないんだ」朔は笑った。責めるんじゃなく、感心したような笑い方だった。「でも正直でいいな、それ。私、ちゃんとしてるかどうかより、何かしたいかどうかの方が先に決まっちゃうタイプだから。ちゃんとできてるかは後でわかる。でも遼みたいに、ちゃんとしたいって思える方が、結果的にちゃんとしてるかもしれない」
「そうかな」
「そうかも、ね」
コーラの缶が、ベンチの上で転がりそうになった。朔が素早く手で押さえた。
その言葉の意味が、あのときはよく分からなかった。今は少し分かるような気がした。分かっても、今の自分に何かが変わるわけではなかったが。
腰が痛かった。
右の腰骨のあたりに、じわじわとした鈍痛があった。ずっと気づいていたのに、無視し続けていた。今日は特に主張が強かった。長く横になりすぎた体の、正直な申告だった。
朔はきっと今頃もう起きている、とふと思った。六本木でも、ロンドンでも、どこかの時間の中で。
布団の重さも、今日は少し違った気がした。三ヶ月前は包まれている感覚だった。体の輪郭に沿って沈んで、外の全てを遮断してくれる感覚。それが今は、うっすらと圧になっていた。押さえつけられているような、出口を見つけようとしている何かが内側にあるような。
遼は左手を布団の外に出した。外気が指先に触れた。少し冷たかった。朝の空気はまだ夜を引きずっていた。
手のひらを上に向けて、天井を見た。
起き上がれる、と思った。
動機ではなかった。意志でもなかった。ただ体が知っていた。理由を探している間ずっと、体はそれを知っていたのかもしれなかった。
ゆっくりと、上半身を起こした。
布団がずり落ちた。部屋の空気が首筋に触れた。目が覚めていく感覚は「覚める」というより「覚めることを許す」感覚だった。座ったまま、しばらくそこにいた。立ち上がらなくていい。着替えなくてもいい。今は、ただ座っているだけでよかった。
カーテンの端をつまんで、指二本分だけ開けた。
光が斜めに差し込んだ。ほこりが光の筋の中を漂っていた。静かに、あてもなく。車の走る音、遠くから人の話し声、どこかのスーパーの有線放送。街の音が薄く部屋に滑り込んできた。
冷たい窓ガラスに額を当てると、街の音が少しだけ鮮明になった。
街は動いていた。
当たり前のことを、久しぶりに実感した。自分が止まっていても、街は動いている。三ヶ月、それが責められているように感じていた。今日は、少し違って感じた。動いているものがある、という事実の、静かな安心があった。それは怒りでも焦りでも励ましでもなく、ただの、ある、という感覚だった。
スマートフォンを手に取った。
朔のメッセージをもう一度読んだ。「久しぶり! 東京に来てる。会える?」
返信欄をタップした。
何と書くか、少しの間、考えた。
「久しぶり」と入力した。三文字。続きが出てこなかった。でも、消さなかった。
「久しぶり。今どのあたり?」
送信ボタンを押した。
既読がついた。すぐに「六本木! 今日の夕方あいてる?」と返ってきた。
遼は画面を見たまま、少しの間、考えた。夕方まで、まだ時間がある。
足を布団の外に下ろした。カーペットの冷たさが足の裏から伝わってきた。
今日、外に出られるかどうかはわからなかった。朔に会えるかどうかも。サクに何を話すか、何も思いつかなかった。でも今、布団の外に座っていた。それが今日、初めてのことだった。
遼は立ち上がった。
窓の外、朝の光の中に、街があった。
書評
まず一言言わせてください。「ふとんの引力」、タイトルが天才すぎる。天才! と思って読み始めたら、あれ? 主人公ずっと布団の中にいる。当たり前じゃないか! タイトル詐欺じゃないか! でも読み進めるうちに「いや、これは詐欺ではなく伏線回収だ……」という気持ちになってきて、「遼は立ち上がった」の一行でもう涙腺にグッときてしまいました。え、なんで? 立っただけなのに? 立っただけで泣くの? 泣きますよ!この作品、基本的にやることが超地味なんですよ。目覚ましを止める。天井の染みを見る。メッセージを受け取る。腰が痛い。カーテンを少し開ける。返信を送る。立つ。以上! 以上なんですよ! なのに、なぜか「人生の縮図」を読んだ気持ちになっている。これ、作者のトリックにまんまとかかっているということなのか? かかってしまった! 悔しくない!
特に刺さったのが「後でが来ない」という表現。え、これで合ってるの? 文法的に? でも完全に意味わかる。むしろこれ以外の言い方がもう思いつかない。未読メール14件と書きかけの履歴書という具体的な数字がリアルすぎて、「遼……私のことを書いたの?」という気持ちになってしまいました。私は転職してないし、NGOの友達もいないですけど。
板垣係長のシーンは読んでいて体が緊張した。「どう思う、奥野くん」から「申し訳ありません」の流れ、これは怖い。怒鳴られるより怖い。質問の形をした詰め、というのが見事に描かれていて、「あ、この人(遼)のことが心配だ」と思ったところで、急にコーラの缶のシーンに飛ぶ。大学二年の夜の公園。朔の「うわ、完全に分かんないんだ」という笑い声で、少し息ができました。この緩急、ちゃんとしてる。
ひとつだけ言わせてほしいのですが、「ちゃんとしたい」という言葉が何回も出てきて、これが遼のキーワードなのはわかる。わかるんですが、若干、「主題ここです!」感が出てしまっていた気がして。もう少しだけ隠れていてもよかったかな、とは思いました。とはいえ全体的にはかなり「語らない」方向で書かれているので、そのバランスは難しいところです。
神崎朔はほぼ文字列としてしか登場しないのに、「今日の夕方あいてる?」の感嘆符一個で人柄が全部わかるのが面白い。対して遼の返信「久しぶり。今どのあたり?」の読点の位置と平静さに、三ヶ月ぶりに言葉を送り出す人間の緊張がにじんでいる気がしました。気がしただけかもしれないけど、気がしてしまったのでもうそれはそういうことです。
「遼は立ち上がった。窓の外、朝の光の中に、街があった。」
この二文で終わるの、本当にいい。何も解決していないし、何も保証されていない。でも「街があった」という言葉が、「世界はまだある」という確認みたいで、読んだ後に少し、窓の外を見たくなる作品でした。悪くない。いやかなりいい。