朝の靄がほどける前のスクランブル交差点には、誰もいない。
甲斐千夏は信号柱の根元にしゃがみ、細い刷毛の先で錆を描いていた。雨垂れの通り道に沿って、上から下へ。途中で一度だけ息を止め、穂先を逃がす。錆は描くものではなく、流すものだ。この三年で手が覚えた。
顔を上げれば、見慣れた看板群が朝の光を待っている。家電量販店、ファストフード、消費者金融。文字はどれも、実在の店から一画だけ変えてある。嘘の街の決まりごとだ。その向こうにそびえているのは、ビルではなく杉山だった。建物はどれも三階分までしかなく、その上は剥き出しの鉄骨と空になっている。ときどき、本物の鳩が迷い込んでくる。偽物の街で、鳩だけが本物だった。
ここは渋谷から百二十キロ離れた山あいの町に建つ、実物大のオープンセットだ。撮影誘致のために町が斜面を切り開いて作った、本物そっくりの嘘の街。ふもとの町から通うスタッフは十二人。千夏は毎朝いちばんに着いて、夜露で湿った路面が乾くのを待つあいだに、その日の段取りを組む。二十六歳。東京で映画の仕事を辞め、誰にも言わずにこの町へ帰って、三年になる。
朝礼で、美術監督の轟木宗次郎が言った。
「来月、東京から映画が来る。三週間、交差点は買い切りだ。エキストラ三百人入れて長回しをやるそうだ。──掃除じゃねえぞ。仕事が増える」
轟木は六十三歳で、しゃべるとき人間の顔を見ない。あの朝も、視線はずっと路面の白線に落ちていた。撮影所の大部屋美術から叩き上げた人で、千夏を採用したときも履歴書ではなく、面接代わりに塗らせたベニヤ板だけを見て「明日から来い」と言った。口癖がひとつある。嘘は本気でつくもんだ。新人が手を抜いた汚しを、轟木はその一言と雑巾一枚で全部拭き消させる。
数日後、事務所に撮影隊のスタッフ名簿が回ってきた。製作部、演出部、撮影部。助監督の欄で、千夏の指が止まった。
仁科遥。
専門学校の同期だった。卒業制作で千夏の脚本に制作担当として付き、撮影許可を取るために渋谷の警察署へ三度も日参した相手。一緒に、本物のスクランブル交差点で撮るはずだった。
千夏は名簿を裏返して机に置いた。三週間、塗装場から出なければいい。美術は黒子だ。黒子は名簿の中にしか存在しない。
ロケハンの日、監督の玖島亨は交差点の中心に立ち、その場でゆっくり一回転した。五十五歳。歩き方に音がない人だった。一周し終えると、誰に言うともなく言った。
「綺麗すぎる。この渋谷は、誰も生きてない。看板も路面も柵も、全部昨日生まれた顔をしてる。俺は交差点そのものを役者として撮るつもりで来た。このままじゃ、死んだ役者の上で三百人を踊らせることになる」
製作部が予算の話を始めかけたのを、玖島は片手で制した。轟木が一歩前に出て、路面を見たまま答えた。
「三週間ありゃ、生き返らせます。──渋谷に居った人間にやらせますんで」
千夏は塗装場の入口でそれを聞いていた。轟木はこちらを見もしなかった。見もしないで、人の退路を塞ぐのだ。
翌日から、記憶を掘り起こす作業が始まった。
ハチ公口の柵には、貼り紙が貼られては剥がされた糊の跡が幾重にも重なっているはずだ。ガードレールの足元には、黒く踏み固められたガムの痕。信号柱には、ステッカーを剥がしたあとの四角だけが日に焼けて残る。配電盤の裏には、誰も読めない位置に誰かの落書きがある。センター街の入口の路面は、舗装の継ぎ目だけ色が違う。千夏の目は、五年前に毎日歩いた街の細部を、嫌になるほど正確に保存していた。
休憩時間に、千夏はノートを作った。記憶の中の渋谷を区画ごとにスケッチし、色番号を振っていく。スクランブルの白線は端だけ欠けさせる。横断歩道の中央は、無数の靴底に磨かれて薄い。書き出すほど、自分がどれだけ長くあの街を見つめていたのかを思い知らされた。
思い出すたび、東京の日々が糊の跡と一緒に付いてきた。終電のホームの匂い。流れた卒業制作。何度書き直しても自信の持てなかった脚本。引き払う日、鍵を返す音だけがやけに大きかったアパート。
それでも、手は止まらなかった。筆を持っているあいだだけ、恥が手応えに変わった。千夏は入社して初めて、自分から轟木に増員と材料と夜間作業の許可を要求した。轟木は床を見たまま「全部出す」とだけ言った。何も訊かなかった。ただ翌日から、塗装場の隅に千夏専用の調色台がひとつ増えていた。
五日目の昼、資材置き場の前で仁科遥と鉢合わせた。
「……美術部の、甲斐さん」仁科は名簿どおりの敬語で言いかけて、やめた。「──千夏でしょ。なんで黙って消えたの」
「塗料、取りに来ただけなんで」
「五年待ったんだよ、あたし」仁科の声は現場の人間の声で、山の斜面まで届きそうだった。「卒制が流れて、あんたが美術の会社に就職して、それでもいつか撮るんだと思ってた。三年前、電話が急に繋がらなくなるまではね。『青になるまで』、あたしまだ冒頭から言えるよ。──誰もいない交差点に青が点いて、それでも誰も渡らない。そこから始まるんでしょ」
ヘルメットの下の顔は日に焼けて、五年分大人になっていた。それでも声だけは、教室で脚本を読み上げていたころのままだった。千夏は刷毛の柄を強く握った。脚本の題名を声に出して言われたのは、卒制が流れて以来だった。
「……すいません。午後の段取りがあるんで」
職人の敬語は便利だ。頭を下げれば、会話はそこで終わる。終わらせたのは、また自分のほうだった。
その夜、信号機の点灯テストがあった。
電気部と二人きりの、無人の交差点。タイマーが進み、四方の車道灯が赤に落ち、歩行者灯に青が点いた。
電気部の青年が「映画みたいっすね」と笑った。映画のためのセットを見て、映画みたいだと言う。千夏は笑えなかった。
誰もいない交差点に、青が点いて、誰も渡らない。
書いた。確かに自分はそう書いた。卒業制作の、冒頭のト書き。それがいま、目の前にある。自分が錆を流した信号柱の上で、偽物の青が、本物の夜をまっすぐに照らしている。
撮りたい、と思った。思ってしまったが最後、三年かけて固めてきた「見切ったのだ」という言葉が、傷口に巻いただけの包帯だったことがわかった。
撮影二日前、玖島の美術チェックがあった。
玖島は音のない歩き方でセットを回った。スクランブルの白線、量販店の袖看板、ガードレールの錆。何も言わずに進み、ハチ公口の柵の前で止まった。長い沈黙のあと、柵に幾重にも残る糊の跡を、指の腹でなぞった。
「ここだけ、嘘が本気だ」
振り向いて、「誰がやった」と訊いた。
轟木が、初めて人間のほうを見た。「うちの甲斐です」と言って、千夏の背中を押し出した。
玖島は千夏を上から下まで一瞥した。賞賛の声ではなかった。診断の声だった。
「あんた、渋谷で何があった」
答えられなかった。何もなかったからだ。何かが起こる前に、自分から降りたのだから。
逃げるように戻る千夏を、仁科が駐車場まで追いかけてきた。
「待てって。──あのさ、あたし、あんたに謝らせたくて言ってるんじゃないんだよ」仁科は息を整えてから、一気に言った。「あんたはあのとき、金がない、許可が下りない、だから撮れないって言った。あたしはそれを真に受けて、五年間あんたの代わりに悔しがってた。でも今日わかった。違うでしょ。あんたはただ怖かっただけ。──逃げたくせに、誰よりも渋谷を覚えてるじゃない。柵の糊の跡まで覚えてるその手は、何なの」
「……知らない」千夏は言った。「手が勝手に覚えてただけ」
「だったらその手に訊きなよ」
仁科は踵を返して現場へ戻っていった。腰のトランシーバーが、別の誰かの名前を呼んでいた。千夏は自分の両手を見た。爪の間に、今日流した錆の色が残っていた。見切ったのだと三年間言い聞かせてきた言葉が、その色の前で、音もなく崩れていった。
本番の日は晴れた。
エキストラ三百人が四つの角に振り分けられた。半分は東京から、半分はこの町の人たちだ。スーパーのレジ係が会社員の衣装を着て、農協の青年部がストリートの若者になっている。衣装部が最後の埃を払い、クレーンがゆっくりと立ち上がった。玖島のメインカットは、交差点が静止してから動き出すまでの九十秒をワンカットで撮る、というものだった。本物の渋谷では、警察も信号も群衆も、誰にも止められない。ここでは止められる。偽物だけが持つ、たったひとつの本物の力だった。
玖島は拡声器を使わず、各角に伝令を立てた。最後の指示はひとつだけだった。信号を見ろ。カメラは見るな。あんたたちは今日から、渋谷の人間だ。
「ヨーイ」
三百人が止まった。風の音だけになった。山の中の渋谷が、完全な静止に達した。
青が点いた。
三百人が、一斉に動き出した。
千夏はモニターの脇に立っていた。画面の中で、人の流れが交差し、すれ違い、誰ともぶつからずにほどけていく。その足元に自分の流した錆があり、柵には自分の重ねた糊の跡があり、信号柱には自分の焼いたステッカーの日焼けがあった。誰も気づかない。誰も気づかないまま、街は完全に生きていた。
カット、と玖島の声がした。オーケーの拍手が起きた。千夏は頬が濡れていることに気づいたが、拭かなかった。拭いたら、これが涙だと認めることになる気がした。──もう、認めてもよかった。
撤収の夕方、機材の積み込みを終えた仁科が、塗装場に顔を出した。
「あの脚本、まだ持ってるんでしょ」
「……実家の押し入れ」
「直して。今度はあたしが段取りする。あたし、もう警察署に三回通わなくても段取れる助監督なんだよ」
そこへ轟木が、床を見ながら入ってきて、誰にともなく言った。
「セットは逃げん。休みの日なら使え。電気代くらいは俺がスタジオ長に話をつけてやる。──ただし、俺を手伝え。次の現場から、汚しはお前が仕切れ」
千夏は二人の顔を順番に見た。それから、自分の手を見た。
「……直したいところが、あるんです」声が少し震えた。「冒頭。誰も渡らない、で終わらせたくない」
仁科が笑った。専門学校の教室で、初めて千夏の脚本を読み終えたときと、同じ顔だった。
次の日曜の早朝、千夏は無人の交差点の中央に立った。
朝靄がまだ路面に残っている。配電盤のタイマーは、自分の手でセットしてきた。肩には専門学校の入学祝いに買った、古いカメラがある。五年ぶりに充電したバッテリーは、まだ生きていた。
ファインダーの中で、歩行者灯の赤が点っている。
偽物の街。一画だけ違う看板。三階から上は空。それでいい、と千夏は思った。嘘は本気でつくものだ──あの人の言うとおり。本気の嘘だけが、たまに本物より遠くまで届く。
鳩が一羽、量販店の偽の看板から飛び立った。
赤が、まだ点っている。
青になるまで、あと少し。
千夏は息を整え、録画ボタンに指を置いて、待った。