朝、目が覚めると、天井のしみをしばらく眺めるのが、いつからか習慣になっていた。蒲生茂三、七十八。妻の千代を見送って三年、家の中で鳴る音といえば、自分の立てる物音だけだ。止まったままの柱時計を横目に、茂三は身支度をする。行く先だけは、決まっている。
「やまびこストア」の自動ドアは、開くたびに半音ずれた電子音を鳴らした。茂三はその間の抜けた音を、自分の一日のはじまりの合図のように聞いていた。
朝、目が覚めると、天井のしみをしばらく眺めるのが、いつからか習慣になっていた。蒲生茂三、七十八。妻の千代を見送って三年、家の中で鳴る音といえば、自分の立てる物音だけだ。止まったままの柱時計を横目に、茂三は身支度をする。行く先だけは、決まっている。
「やまびこストア」の自動ドアは、開くたびに半音ずれた電子音を鳴らした。茂三はその間の抜けた音を、自分の一日のはじまりの合図のように聞いていた。
音無誠一郎が自分の異常を確信したのは、七月の水曜日、会社のトイレからの帰り道だった。廊下の蛍光灯は消えていた。人感センサーは、彼の存在を感知しなかった。
翌日も消えていた。翌週も。
メンテナンス会社に連絡すると、担当の藤川という痩せた男がやってきて、センサーの内部を調べたあと、首をかしげながら言った。
「センサーには異常ありません」 「ですが、私が通っても点灯しないんです」 「ええ」藤川は少し間を置いた。「センサーは嘘をつきません。要するに、あなたの体温が低すぎて、赤外線センサーの感知閾値を下回っているんです。センサー的には、あなたは存在していないことになる」 「存在していない」 「センサー的には、ということですが」
朝の台所に、インスタントコーヒーの匂いが漂っていた。篠崎岳は湯気の立つカップを両手で包みながら、壁の地図をいつものように眺めた。北極を中心に置いた平面地図。南極大陸が細い帯のように世界の縁を囲んでいる。二十年近く前から、毎朝欠かさず見てきた。今日も変わらない。
岳は六十三歳だった。四十年間郵便局に勤め、二年前に定年を迎えた。妻の恵子とは十年前に別れた。フラットアースのことが最後の引き金だったが、本当はもっと前から何かがずっとずれていたのだと思う。息子の和哉とは月にLINEを一度するかどうかという距離感だった。
六時四十二分。
目覚まし音が三度鳴って、止まった。遼がスマートフォンの画面を押さえたのだ。夢うつつにやった気もするし、完全に覚醒した状態でやった気もした。どちらでもよかった。今日がどんな日になるかは、関係なかった。
天井の染みを数えるのは今日で何日目だろう。右上の三角形。左寄りの楕円。中央のあれは前の入居者の遺物か、自分が越してきてから生まれたのかもわからない。遮光カーテンの端から漏れる光が、染みの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
十一時五十七分、弓削栞は引き出しを閉める手つきだけが妙に慎重になった。
机の足元に置いた保冷バッグの持ち手が、青い布地ごしに小さく折れ曲がっている。朝、家の冷凍庫から出してきたプラスチック容器はまだ固く、保冷剤も二つ入れた。昼休みまでの数時間、それを足元に置いて仕事をしているあいだじゅう、栞は何度か靴先で存在を確かめてしまっていた。
「弓削さん、食堂ですか」
斜め向かいの水野悠斗が、モニターから顔だけ上げて言った。まだ二十四なのに、昼休み前だけは小学生みたいに目が明るい。
入江碧の夜勤は、時刻と数値を並べる仕事だった。二十二時、北棟二階、循環ポンプ正常。二十三時、培養液温度十九・八。日報の罫線に収まる語彙は細く、世界はそれに合わせて狭くなっていた。閉鎖予定の研究棟には人の気配がほとんどなく、床の塗膜の割れ目にたまる埃まで、毎晩同じ場所で待っていた。
北棟の夜は匂いが薄い。消毒薬、樹脂、わずかな湿り気。その三つ以外はほとんど感じない。湿度計の表示を見なくても、季節が変わる速度だけはわかるはずだと思っていたころがあったが、ここ数年は外気の温度より、機械室の送風音のほうが碧の時間を決めていた。業務開始から一時間で巡回一回、二時間で水質点検、三時間でログ整理。決まった順番を崩さなければ、何も失わずに朝が来る。