温めますか、記憶まで
十一時五十七分、弓削栞は引き出しを閉める手つきだけが妙に慎重になった。
机の足元に置いた保冷バッグの持ち手が、青い布地ごしに小さく折れ曲がっている。朝、家の冷凍庫から出してきたプラスチック容器はまだ固く、保冷剤も二つ入れた。昼休みまでの数時間、それを足元に置いて仕事をしているあいだじゅう、栞は何度か靴先で存在を確かめてしまっていた。
「弓削さん、食堂ですか」
斜め向かいの水野悠斗が、モニターから顔だけ上げて言った。まだ二十四なのに、昼休み前だけは小学生みたいに目が明るい。
「まだ決めてなくて」 「決めてない状態で十一時台終わると、だいたい負けますよね。僕もう今日は勝ち確なんで」
水野は胸を張ってコンビニの袋を持ち上げた。ラベルの貼られたパスタが透けて見える。
「大盛り?」 「普通盛りです。僕、午後眠くなるんでちゃんと考えてます。前に唐揚げ弁当いったら住民票の枚数を三回見間違えて、西尾さんに『その油で目が曇った?』って言われました」
そう、と笑ってみせたが、栞の足先はまた保冷バッグに触れた。
そのとき、庁内放送みたいな抑揚のない声で西尾真理が言った。 「弓削さん、今日は行くの、行かないの」 「え」 「昼。買うのか、食べに出るのか、持参なのか。あなた、昼だけ人生の分岐多すぎるのよ」
西尾は書類を重ねながら、顔を上げずに続けた。 「区役所の昼休みなんて四十五分しかないんだから、悩むなら前日、せめて午前中に悩みなさい。ぎりぎりまで引っぱると、結局いちばんどうでもいいものを食べて、午後ずっと『あれでよかったのかな』って顔になるでしょ」
言い返せず、栞は「すみません」とだけ返した。西尾は「謝るとこじゃない」と鼻で笑う。
チャイムが鳴くように昼休みを告げ、席が一斉にきしんだ。職員たちが財布やスマホをつかみ、椅子を引く音が重なる。栞は一拍遅れてしゃがみ、保冷バッグを持ち上げた。持ち手が指に冷たい。
休憩室の前には、もう人がたまっていた。電子レンジが二台、壁際に並んでいる。その上に、少し黄ばんだ紙がラミネートされて貼ってある。
匂いの強いものはご配慮ください。
今日に限って、その一文がやけに大きく見えた。
カレーは、強い。
栞は列の最後についた。前の人の弁当から醤油と生姜の匂いが上がり、そのまた前では冷凍チャーハンの袋を開ける音がした。レンジの回転音、冷蔵庫のうなり声、誰かの笑い声。昼の休憩室は、食べものの種類だけ生活の数がある。
保冷バッグをそっと開ける。容器のふたの裏に、白く曇った霜がまだ残っていた。母が最後に作ったカレー。正確には、母が鍋を仕上げ、父が味見をして少しだけ何かを足した、その日の残りだった。
三か月、冷凍庫の奥に入れたままだった。
スマホが震えた。父からのLINEだった。
今日、食べたか? 保冷剤足りるかと思って朝もう一つ入れた だめなら持って帰っていいが、あまり長く置くな
栞は画面を見たまま、息を止めた。
父は責める口調を知らない。知らないまま六十三まで来て、ただ短く、引き返す道だけを静かに狭くする。
わかった
そう返してから、わかった、の中身が何ひとつ決まっていないことに気づく。
「それ、手作りですか」
後ろからのぞきこんできた水野に、栞は反射でバッグを閉じた。
「え、あ、うん」 「いいなあ。容器しっかりしてる。煮物系ですか」
半透明のふた越しに、茶色いものが見えたのだろう。栞は一瞬だけ言葉を失い、「煮込みみたいな」と濁した。
「みたいな?」 「そういう感じの」 「へえ。冬っぽくていいですね。あ、でももう春か」
自分でも何を言っているのかわからない顔で水野はうなずいた。栞も曖昧にうなずく。
列はなかなか進まない。前では総務課の誰かが「三分半でまだ冷たい」と言い、別の誰かが「冷凍パスタは角が罠なんだよな、真ん中熱くて端が凍ってる」と笑った。
「わかるー」 「最近の冷食すごいですよね。下手すると自分で作るよりうまい」 「いや、むしろ下手しなくてもだよ」 「あと、冷凍しとくと安心なんですよ。食べ損ねても残るし」 「それ。残るって大事」
残る。
その一語だけ、妙に湿って耳に貼りついた。
栞は保冷バッグの中に手を入れた。保冷剤の角が、もう朝ほど固くない。少しやわらかくなっている。容器の底を持ち上げると、指先にうすく水気がついた。
昼休みはあと三十一分。
カレーの匂いは強い。温めればたぶん、ここにいる何人かが顔を上げる。誰かが「カレーいいな」と言うかもしれないし、貼り紙のほうをちらりと見る人もいるかもしれない。三か月凍らせた最後の一食を、区役所の休憩室で、順番待ちのあいだに決めて食べてしまうのも、なんだか乱暴な気がした。
「弓削さん、顔が『窓口で必要書類足りなかった人』みたいになってる」
隣に来た西尾が、紙コップの味噌汁を片手に言った。
「そんな顔してますか」 「してる。どうしたの、それ」
視線だけで保冷バッグを示される。栞は答えを選んでいるうちに、また遅れた。
「食べるか、やめるか、迷ってて」 「昼飯で?」 「……はい」
西尾は「大げさに言わないでよ、こっちまで緊張する」と笑ってから、栞の手元を見た。 「カレー?」 「わかりますか」 「そのへんの逡巡の匂いがもうカレーなのよ」
思わず小さく笑ってしまう。けれど次の瞬間、笑いはすぐ引っ込んだ。西尾はその変化を見て、少しだけ声を落とした。
「食べにくい事情つき?」 「……母が、最後に作ったやつで」 「ああ」
西尾はそれ以上すぐには聞かなかった。レンジが一台鳴り、列が半歩進む。誰かが温まりきらない弁当を取り出して、追加で一分押す。
「うちもね」と西尾が言った。「母じゃなくて祖母だけど、最後の煮物を冷凍しといたことあるの。なくなるって確定させたくなかったのよね。冷凍庫に入ってるあいだは、まだ台所の時間が少し続いてる感じがして」
栞は顔を上げた。西尾は味噌汁のふたを指でへこませながら続ける。
「で、半年くらい守った。立派に守った結果、見事に冷凍焼けして、こんにゃくがスポンジみたいになって終わり。食べたけどね。おいしくはなかった。でも、食べたら消えると思ってたものは、別に消えなかった。むしろ『ああ、こういう濃さだった』『祖母のあとに父が醤油足してたな』とか、そういう雑なことのほうが残った」
「雑なこと」 「そう。鍋のふちについた汚れとか、切り方がでかいとか、そういうの」
水野が途中から会話を聞いていたらしく、気まずそうに、それでも黙りきれずに口をはさんだ。 「僕、全然違う話していいですか。うちの母、冷凍庫を時間停止装置みたいに使うんですよ。去年の餅とか普通に出してくるし。でも食べると『去年も正月あったな』ってなるから、あれはあれで機能してるのかもしれないです」
「フォローになってるようで、だいぶ雑ね」 「すみません。でも、食べものって、飾っとくより食べたときのほうが思い出すこと多くないですか。匂いとか、熱いとか、そういうので急に来るというか」
水野は自分の言葉に照れたのか、耳を少し赤くしてコンビニ袋を持ち直した。
列がまた進む。あと二人。
栞はスマホを見た。父から追撃は来ていない。その無言が、かえって待っているようだった。
朝の台所で、父が保冷剤を追加したときの手つきを思い出す。顔を見ていたわけではない。ただ、流し台の前で「一つじゃ足りないかもな」と言って、冷凍庫の引き出しを開ける音がした。そういう音だけが残っている。
「匂い、やっぱりまずいですかね」
貼り紙を見ながら言うと、西尾は即答した。 「職場でシュールストレミング温めるとかなら止めるけど、カレーは常識の範囲内でしょ。貼り紙って、全員の遠慮を少し均一にするためのもので、個人の事情まで裁く札じゃないのよ」
それから少しだけ口元をゆるめる。 「ただし、もし気になるなら短めに温めて、すぐ食べる。悩みも匂いも長引かせない。そういう処理能力を昼休みにまで求められるの、役所っぽくて嫌だけどね」
前の人がレンジを開け、もう一台が空いた。
「弓削さん、どうぞ」
列の流れで呼ばれて、栞は一歩出た。保冷バッグから容器を出す。ふたの内側の霜はだいぶ溶け、角に薄い水滴がついていた。保冷剤はもう、ただ冷たいだけの柔らかさになっている。
昼休みはあと十九分。
レンジの前に立つと、液晶の数字が妙に明るい。隣で別の職員が弁当を入れ、振り向きざまに「温めますか?」と気軽に声をかけた。順番待ちの確認のつもりだったのだろう。
温めますか。
冷たいままなら、まだ今日ではないふりができた。
「……はい」
自分の声が、思ったより普通だった。
容器を入れ、六百ワットで二分三十秒。指が少し震えて、二の数字を押し損ねる。入れ直す。スタートを押すと、皿が回り始めた。茶色い表面の霜が、ゆっくり濡れていく。
その回転を見ているあいだ、西尾は何も言わなかった。水野も珍しく黙っていた。レンジの低い唸りだけが続く。
途中で一度止め、ふたを少し開ける。湯気と一緒に、カレーの匂いが立った。思ったより柔らかい匂いだった。玉ねぎの甘さの奥に、胡椒が少し強い。
「いい匂い」と水野が素直に言った。 「ありがとう」と栞は言って、もう一分だけ追加した。
休憩室の隅の丸テーブルで食べる。スプーンを入れると、じゃがいもが大きい。母はもっと小さく切る。人参もやや厚い。煮崩れかけた玉ねぎの甘さは母のいつもの味だったが、後からぴりっと胡椒が来るのは父の癖だ。思わず、あ、と息が漏れた。
母の最後のカレーだと思っていた。
けれど口の中にあるのは、母ひとりの味ではなかった。台所で味見をして、たぶん黙って胡椒を足した父の手つきまで、一緒に凍っていたのだ。
「どうですか」
向かいに座った水野が、パスタを巻きながら聞く。
「……家の味でした」 「それ、いちばん強いですね」
西尾は味噌汁をすすってから、栞の容器をのぞきこまない程度の距離で言った。 「食べられたじゃない」 「はい」 「よかった、って言うと軽いか。でも、昼飯は食べるためにあるからね。記念館じゃないのよ」
言い方は雑なのに、救われる。
栞はもうひと口食べた。少しぬるいところと熱いところがある。レンジの温めむらまで含めて、急いだ昼休みの味がした。
食べ終えるころには、昼休みはあと七分だった。容器の底には、オレンジ色の油が薄く残るだけになっている。
スマホを開いて、父に打つ。
食べた 胡椒入れたでしょ
すぐ既読がついた。
少しな ばれたか おまえの母さんだけだと甘いと言われそうで
栞は親指を止め、次に短く返した。
ちょうどよかった 保冷剤ありがとう
少し間があってから、父から来た。
次は出来たてを食べろ 冷凍庫は餅で詰まってる
栞は声を出して笑ってしまった。向かいの水野が「何ですか」と首をかしげ、西尾が「ろくでもない家族LINEっぽい顔してる」と言う。
「そんな感じです」 「よかったわね。午後も生き延びられそう?」 「たぶん」 「たぶんじゃ困るのよ、市民課は」
立ち上がりながら、西尾は紙コップを捨てた。 「でもまあ、昼に何食べるか決めた人は、だいたい午後ちょっと強いから」
休憩室を出る前、栞は空になった容器のふたを閉めた。軽い音がした。保冷バッグに戻しても、もう朝のような重さはない。その代わり、歩くと腹のあたりがまだ温かい。
窓口に戻れば、午後の番号札がまた積み上がる。呼ばれて、答えて、確認して、頭を下げる。席に着く直前、スマホがもう一度震えた。
餅も今度持たせる
栞は画面を見て、息だけで笑った。
昼休みの終わりぎわ、区役所の蛍光灯は相変わらず白い。それでも、さっきまで足元に置いていた冷たさよりは、ずっとましだった。
書評
この短編の美点は、喪失を特別な舞台に持ち出さず、区役所の昼休みというきわめて凡庸な時間の中に置いたことにある。電子レンジの順番待ち、黄ばんだ貼り紙、保冷剤の柔らかさ――そのどれもが大きな事件ではない。にもかかわらず、そこに「亡き母の最後のカレー」を持ち込むことで、作品は日常のスケールを一切壊さずに、きわめて切実なドラマを立ち上げる。題名の「温めますか、記憶まで」がまず巧みだ。コンビニや休憩室で交わされる事務的な一言が、そのまま作品全体の問いに変わる。しかも、この問いは安易な感傷には流れない。記憶は冷凍保存できるのか、食べてしまえば失われるのか、という設問に対して、物語は理念ではなく身体感覚で答える。匂いが立つこと、熱いこと、少し温めむらがあること。そうした感覚の総体として、「記憶は失われるのでなく、現在へ引き受け直される」という主題が見えてくる。
また、脇役の置き方も非常にうまい。西尾は人生訓を垂れるための先輩ではなく、あくまで生活者の言葉で主人公を押す。水野は少しずれた軽さを担いながら、その率直さゆえに核心へ触れる。この二人がいることで、物語は湿りすぎず、かといって乾きすぎもしない。父とのLINEも同様で、説明を避けた短文の往復が、かえって長い時間の共有を感じさせた。
短編として見事なのは、主人公の変化が思想ではなく手つきで示される点だろう。持ち歩く、ためらう、温める、食べる、返事をする。その小さな動作の積み重ねが、喪の停滞から日常への復帰を描き出す。派手さはないが、読む者の内部にじわりと熱を残す作品である。