割り箸をうまく割れない人間が、世の中には一定数いるはずだ。
津村拓弥はそう確信していたが、二十三年間、証拠がなかった。
津村拓弥、四十二歳。中堅食品メーカー営業部、係長。入社二十三年目。仕事は丁寧で評判がよく、得意先のキーマンの誕生日と好きな球団と血液型を全員分頭に入れていた。後輩の指導にも時間を割き、ここ三年の成績は部内トップだった。そんな津村の唯一の、完全な秘密は——割り箸を、一度もうまく割れたことがない、ということだった。
割り箸をうまく割れない人間が、世の中には一定数いるはずだ。
津村拓弥はそう確信していたが、二十三年間、証拠がなかった。
津村拓弥、四十二歳。中堅食品メーカー営業部、係長。入社二十三年目。仕事は丁寧で評判がよく、得意先のキーマンの誕生日と好きな球団と血液型を全員分頭に入れていた。後輩の指導にも時間を割き、ここ三年の成績は部内トップだった。そんな津村の唯一の、完全な秘密は——割り箸を、一度もうまく割れたことがない、ということだった。
音無誠一郎が自分の異常を確信したのは、七月の水曜日、会社のトイレからの帰り道だった。廊下の蛍光灯は消えていた。人感センサーは、彼の存在を感知しなかった。
翌日も消えていた。翌週も。
メンテナンス会社に連絡すると、担当の藤川という痩せた男がやってきて、センサーの内部を調べたあと、首をかしげながら言った。
「センサーには異常ありません」 「ですが、私が通っても点灯しないんです」 「ええ」藤川は少し間を置いた。「センサーは嘘をつきません。要するに、あなたの体温が低すぎて、赤外線センサーの感知閾値を下回っているんです。センサー的には、あなたは存在していないことになる」 「存在していない」 「センサー的には、ということですが」
朝の台所に、インスタントコーヒーの匂いが漂っていた。篠崎岳は湯気の立つカップを両手で包みながら、壁の地図をいつものように眺めた。北極を中心に置いた平面地図。南極大陸が細い帯のように世界の縁を囲んでいる。二十年近く前から、毎朝欠かさず見てきた。今日も変わらない。
岳は六十三歳だった。四十年間郵便局に勤め、二年前に定年を迎えた。妻の恵子とは十年前に別れた。フラットアースのことが最後の引き金だったが、本当はもっと前から何かがずっとずれていたのだと思う。息子の和哉とは月にLINEを一度するかどうかという距離感だった。
朝まだき、川霧が田の畦を低く流れ、村はいつもより半刻早く目を覚ました。山の社から牛車が下りてくると聞いたからだ。先頭を歩く長老の樫兵衛のうしろで、荷台のむしろがやけに丸く盛り上がっていた。
触るな。まず寄合だ。
樫兵衛の声は低かったが、村の者はみな足を止めた。むしろがほどかれると、そこには桃があった。桃と呼ぶには大きすぎる、石臼ふたつ分の丸い実だった。薄紅の皮には、川面のような筋がゆらゆらと走っている。
炭が、ぱち、と鳴った。
夜番の詰所は、廊下の角にへばりつくようにある。几帳の裾から入る冷えは遠慮を知らず、壁際の火桶だけが、ここはまだ人の居るところだと赤く言い張っていた。
乙丸は、その火桶へ両手をかざしたまま言った。
「わしは今日、三度、死にかけた」
向かいの末成がすぐ食いつく。
「三度とは小さいな。おれなど五度だ。いや六度でもよい」
「勝手に増やすな。六度も死にかけるやつは、もう一度くらい本当に死ぬ」