炭が、ぱち、と鳴った。
夜番の詰所は、廊下の角にへばりつくようにある。几帳の裾から入る冷えは遠慮を知らず、壁際の火桶だけが、ここはまだ人の居るところだと赤く言い張っていた。
乙丸は、その火桶へ両手をかざしたまま言った。
「わしは今日、三度、死にかけた」
向かいの末成がすぐ食いつく。
「三度とは小さいな。おれなど五度だ。いや六度でもよい」
「勝手に増やすな。六度も死にかけるやつは、もう一度くらい本当に死ぬ」
阿古女は火箸で炭を返した。細い火がふっと起きる。
「で、何があった」
乙丸は身を乗り出した。
「朝まだきよ。霜で板敷きが魚みたいにつるつるしておるころ、小舎人が飛んできてな。『乙丸、火桶を持て、音を聞く』と言うのだ」
「音」
「音だ。火を見るでも、あたるでもない。聞くのだと。しかも東の渡り廊下で、薄様を一枚、火の上へかざしたいから、炭は静かに熾せと言う。静かに熾す炭があるか。炭は炭だぞ」
「静かな炭が欲しければ、灰を抱いて歌えばよい」 阿古女が言った。
末成が膝を打つ。
「負けぬな。それはまだ序の口だ。おれは昼すぎ、牛車の轅の脇を走らされた。御簾の内から『風が詠めぬ』と声がしてな。風は詠むものかと問いたかったが、身が惜しいので口をつぐんだ。かわりに檜扇だけ三本、車の窓へ差し入れた」
「扇で風を詠ませたのか」
「そうだ。しかも一本目は香が強すぎる、二本目は骨の色が秋すぎる、三本目でやっと『これなら春の名残』だ」
「春の名残で凍え死ぬところだったろう」
阿古女がそこで一言だけ挟んだ。
「梅の香」
二人がそろって見ると、阿古女はいつものように顔色ひとつ変えない。
「今日一日、廊下じゅう、その香だった。濃い。急いでいる時の焚き方」
乙丸は指をさした。
「それだ。朝もした。几帳の陰から、あの、鼻の奥へ細い針みたいに残るやつ」
末成も大きくうなずく。
「牛車でもした。しかも、御簾が少し上がったとき、薄様の端が見えた。書いては捨て、書いては捨てしたのか、同じ歌の書き出しが三枚重なっておった」
阿古女が火箸を置いた。
「六枚」
「何」
「同じ書き出し。六枚。昼から夕までに片づけた」
末成が笑い出した。
「勝ちだ、阿古女。六枚でおれの三本扇を越えた」
「勝負にするな。どうせ有範卿」
その名が出ると、三人そろって火桶を見た。炭がまた、ぱち、と鳴る。
乙丸は小声になった。
「やはりそうか。いや、そうだとは思った。思ったが、口にすると急に腹が立つな。わしは朝から、あのお方の歌一首のために、火桶ごと廊下を四度引きずったのだぞ。しかも『近う、いや遠う、やはり近う』だ」
末成がすかさず胸を張る。
「四度で威張るな。おれは牛車の車輪がぬかるみに沈むたびに、『今の揺れは恋に見えるか』と問われた」
「誰に」
「おれに」
「知らんがな」
阿古女の口もとが少しだけ動いた。
「返歌を待っていた」
「そう、それだ」 乙丸が膝を打つ。 「朝、薄様をかざしたのも、墨の乾きが遅いだの、炭の息が荒いだの、散々こね回していた。返歌を待つ男の顔だったのだ」
阿古女は頷いた。
「でも、昼を過ぎても使いは戻らない。だから香が濃くなる。硯の水も減る。檜扇の開き方が荒くなる」
「そうなのだ」 末成が身を乗り出す。 「最初は御簾の内から、たいそう細い声で『風はまだか』と来た。それが一刻もしないうちに『風はどこへ行った』になり、しまいには『車が悪い』だ。車はただの車だぞ」
「待たされると、たいてい物に当たる」 阿古女が言う。
「紙にも当たるのか」
「当たる」 阿古女は即答した。 「一枚目は几帳のそばで近すぎる。二枚目は灯台の影を拾って老けて見える。三枚目は硯の左に置いたら未練が深い。四枚目は右に置いたら恨みがましい。五枚目は置いたとたん、あてつけがましい。六枚目でやっと、捨てるには惜しく、残すにはつらい顔になった」
乙丸はしばらく口を開けたまま、火桶を見た。
「おぬしは紙の面相まで見分けるのか」
「見分けぬと終わらない」
末成が肩を震わせる。
「よいな、それはよい。歌の出来より紙の顔のほうが大事ではないか」
「歌は読まないから知らない」 阿古女が言った。 「でも、破って捨てる速さと、畳み直して袖に入れる速さは違う」
乙丸は笑いながらも、ふと真顔になった。
「袖に入れたのか」
「入れた。だから余計に機嫌が悪くなる。残したくせに、返りが来ない」
末成が指をさす。
「それで牛車だ。おれが走らされたころには、もう座って待つ顔ではなかった。待ちながら、自分は待っていないふりをする顔だった」
「いちばん面倒だ」 乙丸が言う。
「いちばん面倒」 阿古女も言う。
三人の声が、そこで妙にきれいに重なった。
末成が腹を抱えた。
「見ておる、見ておる。おぬしはいつも恐ろしいほど見ておるな」
「見なければ踏まれる」
阿古女の一言で、末成の笑いがきれいに止んだ。乙丸は火桶の縁を撫でる。指先に煤がつく。
「つまりだ。朝、わしが火を聞かされ、昼、おぬしが風を走らされ、昼から夕まで阿古女が薄様の山を片づけた。みな同じ一日の尻ぬぐいだ」
「立派なお方の一日は、ずいぶん大勢で支える」
「大勢どころか、宮中の端から端まで巻き込んでおる。ならば今日の不幸比べ、栄えある勝者は」
「だから勝負にするな。この手の理不尽は、勝ったほうが損だ」
末成はなおも諦めない。
「では趣向を変えよう。いちばん馬鹿げた言いつけを受けた者が勝ちだ。おれは『車の揺れを和らげよ』と命じられた。路面に言え」
乙丸は鼻で笑った。
「甘い。わしは『炭の爆ぜる音が歌の邪魔だ』と言われた。爆ぜるなと炭に言え」
阿古女がすぐ言った。
「私は『その紙だけ、悲しげに置け』」
しばし沈黙して、それから二人が同時に吹き出した。
「悲しげに置け。紙をか」
「紙を。薄様を重ねる角度が違う、もっと心細く見せろと」
乙丸は笑いすぎて咳き込み、火桶へ顔を近づけた。
「いかん、腹が痛い。なんだそれは。紙にまで面持ちを求めるのか。有範卿は」
「求める。しかも二度」
末成が畳を叩いた。
「二度は良い。二度は実に良い。悲しげが足りなかったのだな」
そのとき、廊下の向こうで足音がした。小舎人の使いで、鼻の頭だけ赤い童子が、襖の隙から首を出した。
「乙丸、阿古女、末成。東の控え所へ火桶を一つ。薄様を新しく。あとな、有範卿より仰せだ。今宵もし使いが来たら、すぐお通し申せ。『待っていた風である』と申せ」
三人は顔を見合わせた。
末成がまず、いかにも嫌そうに天を仰ぐ。
「来たぞ。風が来たぞ。今度は人まで風になった」
「待っていた風である、とはまた寒い言いようだ」 乙丸が言う。
「火桶を持って言う台詞ではない」 阿古女が返す。
「おれは行かんぞ」 乙丸が即座に言う。 「朝から火桶に引きずられて、まだあのお方の歌の燃えさしを見るのは御免だ」
「なら私も嫌」 阿古女が返す。 「昼から夕まで紙の心を作らされて、今さら風の顔色まで見たくない」
末成は二人を見て、わざと大きく息を吸った。
「ではおれが行くか。どうせ若いのは足で使うと決まっておる」
「拗ねるな」 乙丸が言う。 「ひとりで行くと、ひとりで損を背負う」
それで、三人とも少し黙った。火桶の赤い口だけが見える。
乙丸は舌打ちしかけ、そこでやめた。阿古女の横顔と、末成の大げさな肩の落とし方と、火桶の赤い口を見た。
「よし。ならばこちらも風らしくいなそう」
童子がきょとんとする。阿古女がすぐ続けた。
「薄様は新しくしない。上質なのは残り少ない。昼の六枚目の裏を使う。香を少し焚き足せばわからない」
末成が指を鳴らす。
「火桶は東へ持ってゆく。ただし廊下口ではなく几帳の内側へ寄せる。寒がっておられるように見えて、待ちかねておられるようにも見える。恋も体面も立つ」
乙丸はにやりとした。
「そして、もし使いが来たら『待っていた風である』ではなく、『ただいま風の通りを整えております』と言え。待っていたと先に言うと、待ちくたびれた顔になる。整えているなら、まだ余裕がある」
「見栄が立つ」 阿古女が言った。
「しかも怒られにくい。これぞ下々の知恵だ」 末成が言う。
童子は三人を見回した。
「それ、ほんとうに申し上げてよいのか」
乙丸は火桶を抱え上げた。じわりと熱が腕へ来る。
「よい。継ぎ目の見えるお方には、継ぎ目に合う言葉を当てればよい」
「言いようが仕立て屋みたいだな」 末成が笑う。
「雑役も長くやれば、針くらい持つ」
阿古女は薄様の束を抱えた。表は白く澄ましているのに、端にうっすら折れ癖がある。末成は檜扇を一本選び、あまり春でも秋でもない顔をしたものを抜いた。
三人で立つと、詰所の寒さがさっきより小さく見えた。
東の控え所へ向かう廊下で、乙丸は童子に小声で言った。
「もし相手方の使いがたいそう立派な顔で来ても、まず足元を見るのだ。牛車の泥なら急ぎ足、香が薄ければ返歌は遅い。貴い人は姿より先に、持ってきたものが喋る」
「袖も」 阿古女が言った。
「袖もだ」 乙丸はうなずく。 「紙を入れてきた袖は、まっすぐ落ちぬ」
末成が感心したように唸る。
「おれたち、もはや歌人より歌のまわりに詳しいな」
「まわりで食っておるからな」
「違いない」
童子が真面目にうなずく。末成がすかさず横から入る。
「そして、もしまた無茶を言われたら、おれを呼べ。無茶比べなら負けぬ」
「勝ちたがるな」
阿古女が一言、落とした。
「でも、役に立つ」
末成がそれで満足した顔をしたので、乙丸はまた笑った。
東の控え所へ火桶を据えると、炭の赤みが新しい畳に映った。薄様は阿古女の指でほどよく心細く重ねられ、檜扇は末成の見立てで、いかにも待つ人のそばに似合う顔をした。乙丸はそれを見て、鼻でひとつ笑った。
「たいしたものだ。悲しげな紙まで作れるようになった」
「置ける、だ」
「次は泣きげな硯もいけるぞ」
「やめろ、仕事が増える」
「では笑いげな火桶で我慢しろ」 末成が言った。
「それはもうある」 乙丸が火桶を見た。
詰所へ戻るころ、火桶の赤みは少し弱っていた。それでも三人の声は、さっきよりよく転がった。