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流れの理

 朝まだき、川霧が田の(あぜ)を低く流れ、村はいつもより半刻早く目を覚ました。山の社から牛車(ぎっしゃ)が下りてくると聞いたからだ。先頭を歩く長老の樫兵衛(かしべえ)のうしろで、荷台のむしろがやけに丸く盛り上がっていた。

 触るな。まず寄合(よりあい)だ。

 樫兵衛の声は低かったが、村の者はみな足を止めた。むしろがほどかれると、そこには桃があった。桃と呼ぶには大きすぎる、石臼ふたつ分の丸い実だった。薄紅(うすべに)の皮には、川面のような筋がゆらゆらと走っている。

 流すしかない。

 柊次(とうじ)は思わず言った。山で見つかった異形は川へ返す。古い言い伝えを持ち出すまでもない。ここに置けば、誰かが触り、誰かが欲を出し、ろくなことにならない。

 だが神主の月斎(げっさい)は袖口を直し、静かに首を振った。

 流す理はある。流し方の理もいる。急げば理が災いになる。

 米問屋の若女将、澄江が算盤を抱えて前へ出る。

 割れて川下の田をつぶしたら、誰が払うの。縁起だけで米は戻らないよ。

 舟大工の甚六は桃のまわりを一周して、黙って節を数えた。

 浮かせる前に滑らせる。板を組めば動く。ただし綱がいる。太いのを左右から。

 言葉は次々に出るのに、ひとつとして先へ進まない。正しいことばかりが、同じ場所でぶつかっていた。柊次は歯がゆくて仕方がなかった。日が高くなるほど川は太る。今夜は雨だ。やるなら今日しかない。

 昼を過ぎ、寄合はまだ堂々巡りだった。柊次は耐えきれず、夕暮れに若い衆を二人だけ集めた。

 試すだけだ。うまくいけば黙るやつも黙る。

 竹の梃子で持ち上げ、丸太を差し込み、どんと押す。桃は重たく転がり、坂を下り、川縁へ近づいた。胸が勝手に高鳴る。いける。そう思った次の瞬間、片側の丸太が泥に噛み、桃は半回転して浅瀬にめり込んだ。

 びくともしない。

 引いても押しても動かず、草履(ぞうり)だけが泥に吸われる。柊次の背で提灯の灯りが揺れた。振り向くと、樫兵衛が立っていた。後ろに澄江、甚六、月斎。怒鳴る者は一人もいない。

 おまえは速い。

 樫兵衛は桃を見たまま言った。

 だが、速いだけでは流れん。

 その夜、蔵で大寄合が開かれた。戸を閉めても声は外へ漏れた。

 左岸から綱を張れ。右岸が先だ。祝い太鼓が先。賃銀を決めろ。まず(はら)いだ。

 言い争いは熱くなるばかりで、誰の耳にも誰の声も入らない。土間で石遊びをしていたおこよが、小さく言った。

 けんかの言葉、順番にしたら終わるんじゃないの。

 柊次はその石を見た。白い石を祓い、黒い石を綱、平たい石を板、細い石を押し手に見立てる。なるほど、みんな同じ場所を取り合っているだけだ。場所ではなく時を分ければ、ぶつからない。

 柊次は立ち上がった。

 聞いてくれ。月斎さんの祓いを最初に置く。その間に甚六親方の弟子が左岸の杭を打つ。祝詞二節目で右岸の綱を張る。澄江さん、俵縄はその時点で何束出せる。

 証文つきなら三十束。

 書く。俺が書く。

 樫兵衛が眉をひそめた。

 結局、おまえの案か。

 違う。

 柊次は首を振った。

 月斎さんの案と、甚六親方の案と、澄江さんの案を順番にしただけだ。俺の手柄は最後でいい。

 蔵の空気が少しだけやわらいだ。最初に頷いたのは甚六だった。

 順番があるなら、木は裏切らん。

 翌朝、川は昨夜よりさらに太っていた。曇り空は低く、風は湿っている。中止の声が出かけたとき、月斎が川際で耳を澄ませた。

 太鼓を鳴らしてくれ。一打ごとに流れの返りが違う。癖が読める。

 おこよが太鼓を打つ。どん、どん、と腹に響く音のあいだで、川音の返りがわずかに変わる。甚六は杭の位置を三尺ずらし、澄江は俵縄の配分を書き直した。柊次は押し手に向かって、声を張る。

 五歩で止まる。止まってから次の五歩だ。速さはいらない。揃えろ。

 掛け声が始まる。

 いち、に、止める。いち、に、送る。

 巨大桃は板の上を滑り、左右の綱で姿勢を保ち、どぶんと川へ入った。水しぶきが朝の光を割る。ところが川の中ほどで渦が巻き、桃がぐらりと横を向いた。

 左岸、引け。右岸、緩めろ。

 声が重なって乱れる。柊次は喉の奥が焼けるのを感じた。

 右岸、いま引け。左岸、半歩戻せ。おこよ、拍子をくれ。

 おこよの打つ乾いた音が、ばらばらの足をひとつにした。左右の綱は勝ち負けの綱引きではなく、戻すための補助線になる。桃は一度沈みかけ、ぬらりと身を起こした。川筋に乗る。

 誰かが泣き、誰かが笑った。澄江は算盤をしまい、甚六は木槌を胸に当てた。樫兵衛は柊次の肩を叩く。

 速さに、待つ力がついたな。

 柊次は返事の代わりに、深く息を吐いた。胸の奥で、昔の事故の日がほどけていく。急ぎすぎて失ったものは戻らない。だが急ぎたい気持ちを捨てずに、みんなの歩幅へ合わせることはできるのだと、ようやく体でわかった。

 桃は村境を越え、朝日を照り返しながら下流へ遠ざかる。風の切れ目に、桃の腹の奥から小さな息のような音がひとつだけ混じったが、誰も川鳴りだと思った。月斎が小さく言った。

 拾うべき人に、届く。

 今回は誰も反対しなかった。柊次は川面を見つめたまま、初めて自分の手柄を数えるのをやめた。背中で聞こえるのは、まだ止まない太鼓の拍子だった。どん、どん、と、村の理がひとつに揃っていく音だった。