正直な感想。

小6掲示板殺人事件。自分のその頃を思い出すと文章能力はかなり低いだろうに、文章で表現する環境での確執がどんなものであったかは知らない。話としてはよくあるんじゃないの、と思うが。いい大人ですらちょっとしたことで興奮して猛烈に悪意のこもった文章を書いて投げつけ合う。子供もそういう、基本的なところは同じだから。

私も子供の頃に電子的な文章と実際の生活のギャップをどうしようかと思ったことがあったのだが、それは別のものだ、と思うことにした。よく「メールでは真意は伝わらない」「誤解される」「会って話せばわかる」と言う人がいるがそれは違う。真意は伝わっているし、誤解もされない。会って話してもわかるけど、わかったことがそれぞれ別なのだ。メールで喧嘩して、会って普通に話す。でもやはりまたメールで喧嘩になる。会って喧嘩になりメールで普通に送り、やはり会うとまた喧嘩になる。同じ人だが、別。別になるのは主にタイミングによる。会って話した場合は処理時間が少ないので表現するまでの間がない。それがケンカにならないのはただ時間の制約で表現できていないだけで、感情は発生している。

ところで、やはり思うのは、「滅多なことは書けんなー」ということだ。私が大犯罪を犯したら、「鬼平犯科帳や史記、春秋左氏伝をこよなく愛する」とか「SFの最高傑作をアイヴォリー(amazon.co.jp)(マイク・レズニック)だと思っている」「ピクミン2のためにGCを買った」「フェンシングの影響か、なんとか無双とか鬼武者とか、大量に相手を斬り殺すゲームを多くやっていた」「普通の人には意味不明のLinuxについてのことを書きつらねている」「書いてることがつまらん」「フロンタサポ」「さいきんおもむろにAmazon.co.jpのアソシエイトをやりはじめたがまだ注文はゼロ」「近所迷惑もかえりみずに朝6時に洗濯機を回したことがあった」「鯨が好物」なんてことが世間様にバレまくるんだろうな。大家さんは「家賃の滞納もなく、ものわかりのよさそうな人だったのに…」と言い、隣人は「顔見たことないなぁ…やっぱヒッキーだったの?」と言うだろう(余計なお世話だ!)。見知らぬ人は「ああ、毎朝河川敷でハカやってた変な人ね」なんてデタラメを言うかもしれない。コンビニの店員は「無口でした」なんて言うだろう(普通コンビニの客は無口だろ!?)。顔写真も出してるし、あーもうオレ大量殺人なんてできない体なんだ、と思い知らされる。被害者になっても同じだから、いろんな状況の防御をも研究する必要があるし。鎖帷子でも着込んどく?

…脱線しすぎて何言ってんのかわかんないな。

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