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余白の教科書

 朝の光は、蒔田(まきた)悟郎の書斎にいつも同じ角度で射し込んだ。文机の上には万年筆立て、埃を薄くかぶった漢和辞典、そして二年間一度も引かれたことのない引き出し。悟郎はその引き出しに鍵をかけてはいない。ただ、開けないことにしているだけだった。

 毎朝、(ひげ)を剃る。着古したカーディガンの袖口は擦り切れているが、繕う気力は湧かない。三十八年間、公立中学校で国語を教えた。生徒の作文に赤ペンを入れるとき、誤字も、行間に隠れた本音も、悟郎には手に取るようにわかった。それなのに、その目をどこに向ければいいのか、もうわからなくなっていた。退職と同時に「先生」という肩書きが消え、日常から居場所も消えた。妻の文枝が逝ってから二年、悟郎の一日はコンビニの店員への「ありがとう」、隣人への会釈だけで完結するようになった。誰とも深く言葉を交わさない日々は、静かで、そして底なしに軽かった。

 引き出しの奥には、書きかけの手紙が眠っている。「文枝へ」とだけ書かれ、その先が続かない便箋。あの日、病室のベッドで、妻は聞き返すように小さく首を傾げた。何かを言いたそうな顔だった。悟郎は「大丈夫だ」とだけ答えた。それが、文枝に向けて最後にちゃんと発した言葉だった。何を言えばよかったのか、二年経った今も悟郎にはわからない。わからないまま、手紙は白紙に近い姿で引き出しの底に沈んでいる。

「蒔田さん、お茶淹れましたけど」

 地域包括支援センターの早坂奈緒子が、湯呑みを二つ持って玄関先の悟郎を訪ねてきたのは、そんな水曜の午後だった。悟郎の家に来るのはこれで三度目だ。

「結構です。もう帰るところでしたので」 「帰るところ、って。今、玄関に出てこられたばかりですよね」

 早坂は笑わずに、それでいて責めるでもなく言った。声のトーンを変えない人だ、と悟郎は思う。深刻な話も、世間話も、同じ温度で語る。

「学習支援ボランティアの件、まだお返事いただいてなくて」 「教えることはもう、終わった仕事です。私には」 「終わった仕事、か」早坂は湯呑みを縁側にそっと置いた。「蒔田さんの三十八年って、そんなに簡単に終わるものなんですかね。私はそうは思わないんですけど」

 悟郎は言い返せなかった。早坂は続けた。

「誰かに何かを残すのに、遅すぎることはないと思うんです。押し付けるつもりはありません。でも、蒔田さんの中にある言葉を、必要としてる子が、実は近くにいるかもしれない」

 その一言が、悟郎の中の頑なな何かに、髪の毛ほどの亀裂を入れた。断るつもりだった言葉が、喉の途中で止まる。

「……週に一度、ですか」 「二時間だけです。中学二年生の子で、少し学校から足が遠のいている子なんです。名前は御堂(みどう)灯真くん」

 悟郎は答えなかった。だが三日後、地域包括支援センターの学習室に、七三分けの白髪を几帳面に整えた悟郎の姿があった。

 御堂灯真は、机に肘をついたまま顔を上げなかった。制服の袖口を指でいじり、鉛筆は握られているのに一文字も動かない。作文用紙は真っ白だった。窓の外で蝉が鳴いていたが、教室の中は妙に静かだった。

「今日のテーマは『最近嬉しかったこと』だそうだね」悟郎は教師時代の声で言った。「難しく考えなくていい。思ったままを書けば」 「別に、書きたくないんで」 「書きたくない、というのも一つの答えだよ。それをそのまま書いてごらん」 「先生、元教師でしょ。早坂さんから聞いた」灯真はようやく顔を上げた。目に警戒の光がある。「教師って、みんな『思ったまま書け』とか言うくせに、書いたら赤ペンで直すじゃん。それって結局、正解を探せって言ってるのと同じでしょ」

 悟郎は言葉に詰まった。図星だった。灯真は鉛筆を机に置くと、白紙のまま作文用紙を悟郎の方へ押し戻した。

 その白い紙を見た瞬間、悟郎の脳裏に、引き出しの奥の便箋がよぎった。「文枝へ」で止まったままの、あの白さと同じだった。――これは、自分の物語でもあるのかもしれない。悟郎はそう思ったが、口にはしなかった。代わりに、作文用紙をそっと自分の鞄にしまい、「また来週」とだけ言って教室を出た。

 翌週も、その翌週も、灯真は白紙を差し出した。悟郎は模範作文をコピーして持ってきたり、「起承転結」を図にして黒板がわりのホワイトボードに書いたりしたが、灯真の鉛筆は動かなかった。

「先週書いた模範文、読んでみたかな」 「読んでないです」 「読めば、書き方の型が見えてくるはずなんだが」 「型なんかいらないし」

 灯真は椅子の背に寄りかかり、天井を見上げた。会話は、いつも同じところで止まった。四度目の指導の日、悟郎がまた模範解答のプリントを取り出したとき、灯真がついに声を荒げた。

「先生の言う通りになんて、誰も書けないよ」

 教室の空気が張り詰める。悟郎は手を止めた。

「正しい書き方なんて聞いてない。ただ……」灯真はそこで言葉を切り、また黙り込んだ。膝の上で拳を握っている。「聞いてほしいだけなのに、先生はいつも、書き方の話ばっかりする」

 悟郎は初めて気づいた。この子が求めているのは添削ではない。ただ、聞いてもらうことだ。三十八年、正しい文章の書き方を教えてきた自分が、目の前の一人の子どもに一番必要なことを見誤っていた。

 その日から、悟郎は模範解答を鞄に入れなくなった。代わりに、自分も一枚の原稿用紙を用意し、灯真の隣で一緒に鉛筆を握るようになった。

「先生も書くの?」 「一緒にやると言っただろう。私も『最近嬉しかったこと』とやらを、真面目に考えてみる」 「先生に嬉しいことなんてあるの」 「失礼だな」悟郎は珍しく口の端を上げた。「昨日、庭の紫陽花(あじさい)が一輪だけ咲いた。それくらいはある」

 灯真は小さく笑った。初めて見る表情だった。沈黙の中で二本の鉛筆が動く。灯真がゆっくりと、短い一文を書いた。「今日、雨がやんだ。」――それだけだった。だが悟郎には、それが久しぶりに感じる確かな手応えだった。

「先生は、誰かに手紙、書いたことある?」

 何気ない問いだった。だが悟郎の手が止まった。灯真が怪訝そうにこちらを見る。

「……ある。書きかけて、出せなかった手紙が」 「出せなかった? なんで」 「言いたいことが、多すぎて、うまく言葉にならなかった。それだけだ」

 悟郎はそれ以上語らなかったが、灯真は何かを感じ取ったように、それ以上聞かなかった。教える側と教わる側という一方向の関係に、初めて小さな亀裂が入った瞬間だった。

 その勢いに乗って、悟郎は次の週、ある課題を提案した。

「宛先を決めなくていい。誰かに向けて、言えなかったことを書いてみないか」

 灯真の顔から、みるみる血の気が引いた。手の中の鉛筆が、かたかたと机を叩く。

「……なんでそんなこと言うの」 「灯真くんにも、言えずにいることがあるんじゃないかと思って」 「勝手に決めつけないでよ! 先生、何も知らないくせに」

 灯真は椅子を蹴るように立ち上がり、原稿用紙を悟郎の方へ叩きつけた。紙が机の端で跳ねて、床に落ちた。

「そんなの意味ない」

 そう吐き捨てて、灯真は教室を飛び出していった。悟郎は落ちた原稿用紙を拾い上げたまま、しばらく動けなかった。善意のつもりだった。だがそれは、少年が必死に守っていた場所に、無遠慮に踏み込む行為でもあったのだ。

 それから灯真は、学習支援教室に現れなくなった。一週、二週と、灯真の席は空いたままだった。

「お母さんも、あまり多くは話してくれなくて」早坂が困った顔で言った。「お父さんが、去年から家を出てるらしいんです。詳しいことは、私にも」

 悟郎は御堂美和に一度だけ会った。看護師の制服のまま、疲れていても背筋を伸ばして受け答えする女性だった。

「灯真がご迷惑をおかけして」 「いえ、私が――」 「すみません、今日は夜勤で」

 美和は言葉を途中で切り上げるように、深く頭を下げて去っていった。悟郎はよそ者としての自分の限界を、初めてはっきりと突きつけられた気がした。三十八年間、教壇の上から生徒たちを見てきたつもりだったが、教壇を降りた今の自分には、たった一人の少年の家庭にすら踏み込む資格がないのかもしれない。

 自宅に戻った悟郎は、しばらく玄関先に立ち尽くしていた。しょせん、暇を持て余した年寄りの自己満足に過ぎなかったのではないか。ボランティアを辞めよう、と思った。早坂に電話をかけようとして、スマートフォンを握ったまま、しかし指は動かなかった。

 その夜、悟郎は珍しく書斎の引き出しに手をかけた。開けるつもりはなかった。ただ、手が勝手にそこへ伸びた。

 鍵のかかっていない引き出しは、あっけないほど軽く開いた。中には、二年前のままの便箋。「文枝へ」――その先には、無数の書き損じと、消しゴムで薄くなった跡があるだけだった。乾いたインクの匂いが、指先に古い記憶を呼び覚ました。

 悟郎は便箋を取り出し、文机に広げた。そして、初めて続きを書き始めた。うまい言葉は出てこなかった。それでも、鉛筆ではなく万年筆を握る手は、若い頃と同じように迷いなく動いた。書いては消し、消しては書き直し、夜が更けるまで悟郎は机に向かい続けた。

 数日後、悟郎は御堂家を訪ねた。美和が驚いた顔で玄関に出た。奥の部屋から、灯真がドアの隙間からこちらを窺っているのが見えた。

「灯真くんに、聞いてほしいものがあって来ました」

 悟郎は玄関先の上がり框(あがりかまち)に腰を下ろし、便箋を取り出した。灯真は出てこなかったが、ドアの陰から動かなかった。廊下の電灯の下で、悟郎はゆっくりと便箋を開いた。

「――文枝へ。あなたが逝ってから、二年が経ちました。あの日、病室で私が最後まで言えなかった言葉を、ようやく書きます」

 悟郎の声は震えていた。教師としての凛とした声ではなく、ただ一人の、老いた、不器用な男の声だった。

「あなたが眠る前、私に何か聞きたそうな顔をしていましたね。私は、いつも通り『大丈夫だ』とだけ答えました。本当は、怖かったのです。あなたのいない日々が、こんなにも長く、こんなにも静かなものになるとは思っていませんでした。何を言えばよかったのか、今もわかりません。ただ、あなたがいなくなってから、私は誰かに何かを伝えることが、こんなにも難しいのだと初めて知りました。教師でありながら、自分の言葉一つ、あなたに届けられなかった」

 灯真がドアから半歩、廊下に出てきた。その目に、これまで見たことのない色があった。

「……先生も、言えなかったんだ」灯真がぽつりと言った。「おれも、そう。お父さんが出てった日、何も言えなかった。引き止める言葉、頭の中にはあったのに、口から出てこなかった」 「灯真くん」 「みんな、おれのこと腫れ物みたいに扱う。かわいそうな子、って。だから、何も言わないことにしてた。言ったら、もっとかわいそうになる気がして。お母さんにも、心配かけたくなくて。誰にも本当のこと言わないまま、ずっと白紙のまま出せば、誰も傷つかないと思ってた」

 灯真の声は震え、涙が頬を伝った。それは、四度も白紙を差し出してきた少年が、初めて自分の言葉で語った瞬間だった。悟郎は何も言わず、ただ隣に腰を下ろした。教える者としてではなく、共に何かを抱えた者として。

 翌週、灯真は学習支援教室に戻ってきた。何も言わずに机につき、鉛筆を握った。今度は動いた。ゆっくりと、しかし止まらずに、白紙だった作文用紙が言葉で埋まっていった。

「読んでみてもいい?」悟郎が聞くと、灯真は少し迷ってから、小さく頷いた。

 そこには、父の不在と、それを誰にも言えなかった孤独と、それでも母がいてくれることへの感謝が、拙いながらも灯真自身の言葉で綴られていた。悟郎は赤ペンを取り出しかけて、やめた。直すべき言葉は、一つもなかった。

 文集発表の日、灯真は初めて教室の前に立った。声は小さく、時々つかえたが、最後まで読み切った。読み終えたとき、クラスメイトたちの拍手が起きた。灯真は照れくさそうに、けれど確かに、笑った。

「あの子、変わりましたね」早坂が悟郎の隣で囁いた。 「変わったんじゃない」悟郎は小さく首を振った。「もともと持っていたものを、やっと出せただけだ」

 美和は会場の後方で、目元を拭っていた。息子の声が、これほどまで教室という「社会」に届いたのを、初めて見た。発表が終わったあと、美和は悟郎のもとへ歩み寄り、深く頭を下げた。

「灯真が、先生のこと、たまに家で話すんです。『あの先生、変な話し方するけど、ちゃんと聞いてくれる』って」 「それは光栄です」 「私も、誰かにちゃんと話を聞いてもらったの、久しぶりだった気がします」

 美和はそう言って、初めてぎこちなく微笑んだ。それは、これまで一人で抱えてきた疲れが、少しだけ軽くなった証のようだった。

 秋の彼岸、悟郎は文枝の墓の前に立った。手にしているのは、あの便箋だ。完成した、とは言えない。書き足りないことは、まだいくらでもある気がする。それでも悟郎は、声に出して最後まで読んだ。

「――あなたに伝えたかったことは、結局、うまく書き終えられませんでした。でも、書き続けることはできそうです。今年から、近所の子どもたちに国語を教えることになりました。あなたが好きだった、あの押し付けがましくない優しさを、少しは真似できているといいのですが。文枝、見ていてください」

 墓石に手を合わせたあと、悟郎は携帯電話を取り出し、早坂にメッセージを送った。「来期も、灯真くんの担当を続けさせてください」

 短い文面だった。だが悟郎にとっては、二年ぶりに自分の意志で誰かに宛てた、初めての言葉だった。

 余白は、消えない。文枝への手紙も、灯真の作文も、完璧に埋め尽くされることはないだろう。それでも悟郎は、教科書の隅にまだ書き込めそうな余白を見つけたような気がした。悟郎はそう思いながら、秋の日差しの中を、ゆっくりと歩き出した。


書評まあ、悪くない話だった。

最初は退職教師のおじさんがしおれてるだけかと思ったが、そうじゃなかったな。妻の手紙が書けないとこ、あそこで一本筋が通る。それと少年の白紙がかぶるあたり、構成がうまいんだろう。押し付けがましくない。

教える側が教わるみたいな、そういう描写もいい。年取ったおじさんが若い子相手に、素直になるとこ。実生活でそういうことあるんだろう。見ていて息苦しくない。

学習支援とか、ボランティアとか、そういう枠組みの中でよくある美談にしないで、二人が言えなかったことを言うっていう同じ地盤に立つ。そこがな。だから灯真の少年も、いきなりしゃべり始めたりしない。ゆっくりで、下手で、でも自分の言葉。その辺りの書きぶりは丁寧だった。

ラストも良かった。完璧に片付かないまま、それでもおじさんが歩き出す。そういうのいいな。人生ってそんなもんだ。「余白の教科書」ってタイトルもそのこと言ってるんだろう。

途中、少し時間かかるとこはあるが、まあ。短編としてはまとまってる。こういう地道な話、好きな人は好きなんだろう。オレもだ。