祖母の葬儀から三日後、沢渡汐音は実家の玄関先で鍵を握ったまま、しばらく動かずにいた。錆びかけた鍵穴に馴染むまで、いつも少し粘る鍵だった。子供の頃から変わらない抵抗感が、掌にじんわりと伝わってくる。手帳には「実家整理・売却手続き、五日間」とだけ書いてある。悲しいという言葉の代わりに、数量を並べる。段ボール八箱。査定二件。書類一式。そうしておけば、たいていのことはやり過ごせた。
在来線を二本乗り継ぎ、バスに揺られて一時間。窓の外の景色が家々からやがて茶畑と杉林に変わっていくのを、汐音はほとんど見ないようにしていた。バスが停留所に着くたび、車内アナウンスの地名が一つずつ懐かしくなっていくのが煩わしかった。十二年間、意図して戻らずにいた場所だった。就職も、引っ越しも、盆や正月の帰省を断り続けたことも、すべてはこの土地から距離を取るための小さな決断の積み重ねだった。祖母の葬儀の連絡が来なければ、あと十二年でも戻らなかっただろう。
家の中は埃と樟脳と、かすかな線香の匂いが混じり合っていた。仏間には祖母ハツの遺影が置かれたままで、汐音はまだそれをどこに片付けるべきか決めかねていた。台所の勝手口には、雫が背比べをした鉛筆の跡が、色褪せた柱にまだ残っている。汐音はその柱の前を通るとき、必ず視線を逸らした。
不動産業者の男は、居間に図面を広げながら、ついでのように切り出した。 「庭の池も、埋めていただく形になりますね。あのままだと、買い手がどうしても敬遠しますから。近隣の方に伺ったら、昔から少し、いわく付きのようで。まあ、田舎にはよくある話ですが」 「わかりました」 汐音はそれだけ答えて、図面の続きに目を落とした。聞かなければ、行かずに済む。長年、そうやって多くのことをやり過ごしてきた。
その夕方、懐中電灯も持たずに庭へ出た自分を、汐音は半分呆れながら見ていた。雑草に埋もれかけた飛び石をたどると、記憶よりずっと小さな池が現れる。水面には赤松の影が落ち、腐葉土と苔の匂いが立ちのぼっていた。どこかでもう一匹、別の蛙が短く鳴いた。ふちの平たい石の上に、蛙が一匹、前脚を揃えてじっと止まっている。今にも跳びそうな姿勢のまま、跳ばない。喉の奥が急に狭くなった。ここを、この石を、この角度から見たことがある。膝の裏が冷たくなり、汐音はその場に蹲りそうになるのをこらえた。——ここは、雫が死んだ場所だ。
その晩、汐音は結局、池には戻らなかった。布団に入っても、天井の木目を数えることしかできなかった。数えることなら、いくらでも得意だった。翌日も、その翌日も、庭の反対側から回り道をして井戸端まで水を汲みに行き、池のある方角へは目を向けなかった。仕分けの手を止めるたび、視界の隅で何かが揺れる気がして、そのたびに段ボールのガムテープを余分に貼り足した。
雫が死んだ後の数ヶ月、この家はずっと静かだった。母は台所に立つ回数が減り、父は縁側で庭を眺めたまま動かなくなることが増えた。誰も汐音を責めなかった。責めないことが、かえって汐音には重かった。責められなかった分だけ、自分で自分を裁く役目を、汐音は誰にも譲らずに引き受け続けてきたのだった。
翌朝、池のそばの小さな祠の前で、老人が煙草をくゆらせていた。日に焼けた首筋と、節くれ立った指。祖母の代からの付き合いだという、迫水悌介だった。 「あの蛙はな」 前置きもなく、悌介は言った。 「わしが子供の頃から、ずっとあの石の上におる。古い借りが払われる夜に、初めて飛び込むんだと。そう聞かされて育った。この村じゃ、あの池に何かを落とした者、忘れ物をした者は、みな、あの蛙が跳ぶのを待っとる。まあ、そういう話だ。信じるも信じぬも、好きにしたらええ」 悌介はそう言うと、祠に供えてある古びた賽銭箱を軽く撫でた。村では、あの池に近づくのを嫌がる者も少なくないのだと、悌介は付け加えた。子供が生まれると、まずあの池には近づかせるなと教える家が、今でもいくつかあるのだという。 「よく覚えていないんです、あの頃のことは」 汐音はそう言って、視線を祠のほうへ逃がした。悌介はしばらく黙って汐音の顔を見ていた。値踏みするようにではなく、ただ、そこに何かがあるのを確かめるように。 「そうか」 悌介はそれだけ言うと、煙草を消し、祠のほうへ戻っていった。その背中が、何かを見透かしているように感じられて、汐音はしばらく蹲ったまま動けなかった。
遺品整理の途中、祖母ハツの文机の引き出しから、古い日記帳が出てきた。表紙は色褪せ、紐で綴じ直された跡がある。几帳面な字で埋められたページをめくっていくと、雫が死んだ年の項に、汐音の目を釘付けにする記述があった。
「汐音は、あの日、もっと水際にいたはずだ。あの子は、何かを見た顔をしていた。誰にも言わなかったが、私にはわかっていた」
数ページ後、別の日付にはこうあった。
「あの子まで背負わせるつもりはない。だから、私も黙っていた。汐音が自分から話す日が来るまで、待つと決めた」
汐音は日記を閉じた。両手が震えているのに気づき、しばらく開けなかった。祖母は、知っていて、なお十二年、何も言わずにいてくれたのだ。その沈黙の重さが、初めて汐音自身の沈黙と重なって見えた。
数日後、幼馴染の廣瀬茜が、茶葉の缶を片手に訪ねてきた。急須と湯呑みを勝手知ったる様子で戸棚から出し、相変わらずの早口で近況を並べ立てる。実家の茶畑のこと、村を出た同級生たちのこと、去年の台風で倒れた欅のこと。汐音も久しぶりに声を出して笑った。けれど、湯呑みに茶を注ぎながら、ふと茜の手の動きが速くなった瞬間があった。 「あの日さ」 茜は茶葉を揉む仕草をしながら、目を合わせずに続けた。 「汐音ちゃん、もっと水のそばにいたよね。雫ちゃんが呼んでる声、聞こえてたんじゃないかって、うちの親、よく言ってたよ。別に責めてるわけじゃないの。ただ、みんな、汐音ちゃんも辛かったんだろうなって、それだけ。子供だったんだし、誰も汐音ちゃんを悪く言ってないよ」 悪意のかけらもない声だった。だからこそ、汐音の中の何かが崩れた。水際に立ち尽くし、助けを呼ぶ妹の声を聞きながら、体が動かなかった記憶が、堰を切ったように押し寄せてきた。汐音は湯呑みを両手で包んだまま、しばらく何も言えなかった。茜は答えを急かさず、ただ茶を注ぎ足しながら、汐音が言葉を見つけるまで静かに待っていた。
その夜、眠れないまま庭に出た汐音は、月明かりの下で蛙と向き合った。蛙は変わらず、跳びそうな姿勢のまま止まっていた。汐音の記憶が、初めて欠けることなく蘇る。夏の午後、蝉の声。雫が「見て、汐音ちゃん」と石の上の蛙を指差していた。汐音がよそ見をした一瞬の間に、足を滑らせる水音がした。振り返ると、雫の頭が水面に浮き沈みし、小さな手が空を掻いていた。助けを呼ぶ声。汐音は水際に立ち、動かなかった。動けなかったのではない。恐怖に押しつぶされて、ただ立ち尽くすことを、体が選んだのだ。大人が駆けつけたときには、もう遅かった。あのとき石の上にいた蛙は、その一部始終を見ていたはずなのに、やはり跳ばなかった。
汐音は初めて、その静止——蛙の静止も、自分自身の凍りついた十二年間も——が同じものだと理解した。動かないことを選んでしまった自分を、汐音はずっと「動けなかった」のだと言い聞かせて生きてきた。
「ごめん」 声が勝手にこぼれた。誰に向けたのかもわからないまま、何度も。
翌日、汐音は不動産業者に電話をかけた。 「池は、埋めずに残す方向で、契約を見直したいんです」 「今さらそれは、買い手との調整が――」 「それでも。埋めるのはやめてください。お願いします」 受話器の向こうで男が困惑した沈黙を挟んだ。「価格の見直しになりますが、よろしいですか」と念を押され、「構いません」と汐音は即答した。数字で説得されることに慣れていたはずなのに、初めて、数字より優先するものがあった。
電話を切ったあと、茜に連絡し、明日、一緒に池まで来てほしいと頼んだ。「一人だと、また、見ないふりをしそうだから」。
翌日の昼、茜とともに池のふちに立った汐音は、靴を脱いだ。水面は昼の光を受けて、思いのほか穏やかに凪いでいた。 「本当にやるの」 「うん。今度はちゃんと、入る。十二年前にできなかったことを」 水の中へ足を踏み入れる。泥の感触が指の間に広がり、冷たさが脛を伝った。汐音はさらに一歩、膝の高さまで進んだ。屈み込み、水底の泥に指を差し入れると、小さく硬いものに触れた。引き上げてみると、錆びついた小さな髪飾りだった。雫が生前、よく着けていたものによく似ていた。その瞬間、石の上の蛙が跳んだ。 水音が庭に響いた。十二年越しの水音だった。
汐音はその場に立ち尽くしたまま、髪飾りを両手で包み、声を出さずに泣いた。茜がそっと隣に来て、何も言わずに肩を抱いた。二人はしばらく、水音の余韻だけが残る庭に立っていた。
数週間後、汐音は悌介と茜に、あの日のことを自分の言葉で話した。「妹の声が聞こえていたのに、体が動かなかった。そして、動けなかったことにして、ずっと生きてきました」。悌介は黙って頷き、「よう言うた」とだけ返した。その一言に、汐音は長年張り詰めていた何かが緩むのを感じた。
池は埋められることなく残った。それから幾度か季節が巡っても、池のふちの石はただの石として、そこにあり続けている。時折、別の蛙がその石に上がることがあるが、もう誰も、それが跳ぶかどうかを固唾を呑んで見守ったりはしない。
汐音は結局、実家を手放さなかった。売却の話は取り下げ、月に一度、あの家と庭の手入れに戻ってくるようになった。錆びついた髪飾りは、仏間の遺影の隣に小さな器へ入れて置いてある。池のそばを通るとき、汐音はもう視線を逸らさない。かつて喉の奥を狭くした既視感は、今では、ただ懐かしいだけの静けさに変わっていた。
書評
読んだ。蛙の話かと思ったら、蛙の話じゃなかった。まあ、そういうもんだろう。
池のふちで飛び込まずにいる蛙の描写は、悪くない。じっと動かない、というだけのことを、これだけ長く引っ張られると、こっちも動かせなくなる。妙な話だ。
途中、祖母の日記のくだり。あそこはちょっと効いた。何も言わずに待ってた、というのは、言葉にすると簡単だが、十二年やるのは簡単じゃない。爺さんの「そうか」も、まあ、悪くない相槌だった。ああいうのは、多くを語らん方がいい。
幼馴染が茶をすすりながら核心に触れるところは、少し出来すぎな気もしたが、田舎の噂話なんてのは大体こんなもんだろうから、まあ許容範囲だ。
水に入る場面。ここは静かで良かった。派手にしなかったのが良い。悲鳴も音楽もいらん。冷たい、それだけで十分伝わってくる。
最後、蛙が飛ぶところは、狙いすぎと言えば狙いすぎだが、待たされた分の免罪符だと思えば納得できる。
祟りだ何だと大きく風呂敷を広げなかったのも好感が持てる。人が一人、腹をくくっただけの話だ。それでいい。
強いて言うなら、髪飾りは拾わせなくても良かった気がする。物に語らせすぎだ。
まあ、悪くない一編だった。