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堤の証言

 縁側に座っていた登世(とよ)は、ラジオから流れてきた一言に、湯呑みを持つ手を止めた。

沢見堤(さわみてい)の老朽化に伴い、来月より大規模な改修工事を行う予定です。工事期間中は河川敷の通行が制限されますので、ご注意ください」

 孫の渚は麦茶のグラスを置きながら、ぼんやりとその放送を聞いていた。だが、隣に座る祖母の手が止まったことには気づいた。

「おばあちゃん、どうかした?」

「ああ、ごめんね。少し前から、堤防の方で重機の音がするなと思っていたの。もう始まるのね」

 登世は湯呑みを縁側に置き、庭の向こうに見える土手をしばらく見つめた。緑の斜面は、夏の光の中で静かに横たわっている。あの堤防は、登世が物心つく前からそこにあった。そして、登世が二十三歳だったときも、同じ場所にあった。

 登世は最近、めまいで倒れることが増えていた。医者からは、もう大きな手術はできない年齢だと、はっきり言われている。村もすっかり変わり、かつての役場の建物は取り壊されて、今は小さな郵便局になった。それでも、堤防だけは、登世の家の縁側からいつも同じ場所に見えていた。

「渚」と登世は言った。「悪いんだけど、蔵の奥に、古い茶筒があるの。茎色(くきいろ)の、丸い缶。あれを持ってきてくれる?」

「茶筒? いいけど……探すの大変そう」

「いいの。時間はあるから」

 渚は少し怪訝な顔をしたが、麦茶を飲みきると立ち上がり、蔵へ向かった。登世はその背中を見送りながら、六十年という時間の長さを、初めて重さとして感じた。

 六十年あまり前、登世は二十三歳で、村役場の総務係として働いていた。書類を整理し、判を押し、来訪者にお茶を出す。それが彼女の一日だった。

 事務室には、登世のほかに二人の同僚がいたが、込み入った書類のやり取りは、ほとんどが助役の黒田重蔵(くろだじゅうぞう)を通して行われた。黒田は村の有力者の家の出で、戦後の混乱のなかでも役場に居場所を保ち続けた人物だった。誰に対しても穏やかで、声を荒げることは一度もない。だからこそ、登世は、彼に何を言えばいいのか分からなかった。

 ある日の午後、その黒田が、机の上に一冊の綴りを置いた。沢見堤の改修工事の完了報告書だった。

「登世さん、これに目を通して、判を押しておいてくれるか」

 登世は綴りを開き、数字を目で追った。コンクリートの使用量、補強材の本数。どこかで見た数字だと思い、引き出しの奥から、半年前に立ち会った検査記録の控えを取り出した。並べてみると、数字が違っていた。報告書の方が、明らかに少ない。

「黒田さん」登世は紙を見つめたまま言った。「これ……検査のときの記録と、数が合わないようですが」

 黒田は綴りを覗き込み、笑った。

「ああ、それは最終的な調整があってね。現場ではよくあることだ」

 そして、机の端に腰を下ろし、世間話のような口調で続けた。

「そういえば、お父さんの借金のことだけど。あれは、うちの方でもう片を付けておいたよ。寅吉さんも、これで肩の荷が下りただろう。あの人も律儀な人だから、いつまでも気にしていたんだ。登世さんが村役場で頑張ってくれているのを、こちらもちゃんと見ているからね」

 登世は何も言えなかった。黒田は、登世が何か言うのを待っているようには見えなかった。ただ、当然の天気の話でもするように、それを口にしただけだった。

 黒田が部屋を出て行ったあとも、登世はしばらく綴りを開いたまま、自分の手元を見ていた。検査記録の控えを、引き出しの奥にしまい直す。誰かに見せるためではない。ただ、自分が見たという事実を、なくしてしまわないように。それが、その時の登世にできる、唯一のことだった。

 登世は綴りに判を押した。

 その日の帰り道、登世は幼なじみの千代(ちよ)の家に立ち寄った。千代は川沿いの家に住み、縁側から堤防の向こうの川面を眺めるのが好きだった。

「最近、役場の仕事が怖いの」

 登世がそう言うと、千代は笑った。

「登世さんは、昔から真面目すぎるのよ。少しくらい、肩の力を抜きなさい」

 千代は縁側から川を指した。夕陽が川面に反射して、橙色に揺れていた。

「ねえ、ここから見る景色、好きなのよ。嫁に行く前も、嫁に行ってからも、結局またここに戻ってきちゃった。何にもない村だけど、夕方この時間だけは、どこよりも綺麗だと思う。登世さんも、たまにはそういうの、ちゃんと見た方がいいわよ」

 登世は、千代の言葉に頷きながら、ふと尋ねた。

「千代さんは、この村を出ようと思ったこと、なかったの?」

 千代は少し考えてから、笑って答えた。

「あるわよ。でも、出てみて分かったの。私はこの川と一緒に育ったんだなって。だから、ここにいるの」

 登世はその景色を見ながら、何も言わなかった。言葉にしてしまえば、自分が何に判を押したのかを、もう一度確認することになる気がした。

 三年後の夏、大きな台風が村を直撃した。登世は当直として役場に残っていた。

 雨は夜になっても弱まらず、川の水位を知らせる無線は、次第に切迫した声に変わっていった。無線からは、堤防の各区間の水位が、次々と読み上げられていく。登世は、その数字を聞きながら、三年前の報告書に書かれていた数字を思い出していた。本当は、もっと薄いはずの場所がある。心の中で、その区間の名前を呟いた瞬間、無線の声が、まさにその区間の名を告げた。

 深夜、役場に一本の電話が入った。

「堤防が、危ない区間で水を被っているらしい」

 登世は壁に貼られた地図に目をやった。その区間は、三年前、自分が判を押した報告書の、数字が合わなかった場所だった。

 登世は立ち上がった。誰かに伝えなければならない。千代の家は、その区間のすぐ下流にある。電話を取ったが、つながらなかった。外に出ようとしたが、雨は既に道を覆い始めていた。

 登世は、何もできなかった。

 夜が明けたとき、堤防はその区間で決壊していた。川沿いの家々は、ほとんどが流された。千代も、その中にいた。

 翌朝、登世は同僚とともに、川沿いの様子を見に行った。土手の一部が大きく崩れ、その先にあったはずの家々の屋根が、いくつも消えていた。登世は、千代の家があった場所に立ち、しばらく動けなかった。水は引いていたが、地面はまだ濡れていて、足元から川の匂いがした。

 村の正式な報告では、「記録的な豪雨による不可抗力」とされた。登世は、自分が見た本当の検査記録のことを、誰にも言わなかった。

 数日後、黒田は登世に、報告書に関する一切の書類を処分するように指示した。登世は焼却炉の前まで持って行ったが、火をつけることができなかった。

 代わりに、家にあった古い茶筒に、検査記録の控えと、改竄された報告書の写しを入れた。蔵の奥にしまい、二度と誰にも話さないと決めた。

 縁側に戻ってきた渚が、茎色の茶筒を登世に渡した。登世はそれを膝の上に置き、しばらく蓋を見つめた。

「おばあちゃん、それ何? なんか、すごい年代物っぽいけど」

 登世は答えなかった。蓋には、薄く埃が積もっていた。指でそっと拭うと、六十年前と同じ、茎色の缶が現れた。渚は、祖母の手の動きをじっと見ていた。

 登世は蓋に手をかけたが、すぐには開けなかった。

「やっぱり、今日はいいかな。気が変わったわ」

 渚は問い返さなかった。ただ、隣に座り直した。

「うん。おばあちゃんが話したいなら、聞くよ。話したくないなら、それでもいいよ。麦茶、もう一杯飲む?」

 登世はその言葉を聞きながら、長い間、川の方を見ていた。それから、ゆっくりと蓋を開けた。

 中には、変色した紙の束が入っていた。登世の声は、最初は震えていた。だが、一度言葉が出ると、長く()き止められていた水が動き出すように、止まらなくなった。報告書の改竄のこと、黒田との取引のこと、台風の夜のこと、そして千代のこと。

 登世は、千代の家が流された朝、土手に立って何も言えなかったことも話した。それからの六十年、毎年その季節になると、川の音を聞くのが怖かったことも話した。

 渚は黙って聞いていた。語り終えると、登世は言った。

「私が、あのとき何か言っていれば……千代は、死なずに済んだかもしれない」

 渚は、登世の手を握った。

「おばあちゃんは、それを今までずっと、一人で持ってたんだね。誰にも言えなくて、誰にも頼れなくて。それって、すごく長いよ。私だったら、絶対に無理」

 そして、紙の束を見つめながら、尋ねた。

「これ、どうしたい?」

 登世は考えた。黒田も、父も、もう誰もこの世にいない。訴える相手はいない。だが、千代の名前を、どこかに正しく置きたいと思った。

「村の資料館に、水害の記録室があるでしょう。そこに、これを。誰かを罰してほしいわけじゃないの。ただ、千代がどうして死んだのか、本当のことを、どこかに残しておきたい」

 渚はうなずいた。

「うん。それなら、私も一緒に行く」

 登世は手記を書き始めた。最後に、千代の名前を書いた。

 その週末、登世は渚とともに、村の郷土資料館を訪れた。水害の記録室には、当時の写真や、村の広報誌の切れ端が並んでいた。登世は、手記と報告書の写しを、係の人に手渡した。「これは……」と係の人が紙を見て聞き返したが、登世はただ、「昔のことです。預かっていただけますか」と答えた。

 帰り道、渚が尋ねた。

「これで、終わり?」

 登世は少し考えてから、答えた。

「終わりじゃない。やっと、始まったんだと思う」

 数日後、改修工事のクレーンが、古い堤防を取り壊し始めた。登世と渚は縁側からそれを眺めていた。

 これまで、登世はその音を避けてきた。だが、今日は違った。土手が少しずつ形を変えていくのを、登世は最後まで見届けようと思った。風が、川の匂いを運んできた。六十年前と、同じ匂いだった。

 登世は川の方を見ながら、静かに名前を呼んだ。

「千代」

 渚が、その名前を繰り返した。

「千代さん」

 川面に、夕陽が反射していた。六十年前と同じ、橙色の光だった。


書評夏堤や ラジオの声に 止まる手よ

読み始めてすぐ、この一句が浮かんだ。湯呑みを持つ手が止まる、その一瞬の静止に、六十年分の時間がすでに畳み込まれている。説明はないのに、何か重いものを抱えた人だと分かる。出だしの呼吸が見事だった。

恩という 名の優しさが 一番重い

黒田という人物の台詞には、唸らされた。借金を帳消しにしたという話を、世間話のように差し出す。怒鳴られるよりも、こういう「優しさ」のほうがよほど人を縛るのだと、改めて思い知らされる。声を荒げない悪意、というものの怖さ。

茎色の 缶のふたごと 六十年 あけてみせたる 老いの手のひら

茶筒というモチーフが、最後まで効いていた。中に入っているのが告発状でも遺言でもなく、ただの「報告書の写し」であるところに、リアリティを感じる。大げさな結末を避け、資料館に「預ける」という選択に落ち着かせたのも、誠実だと思う。

橙に 名を呼ぶ声や 夕焼け

ラスト、千代の名前を呼ぶ場面。冒頭の夕景と同じ色が、最後にもう一度差してくる構成が、静かに胸に来た。堤防という言葉が、最後まで二重の意味を失わずに機能していたのも良かった。全体として、声を荒げずに重いものを語り切った一作だと思う。