朝、目が覚めると、天井のしみをしばらく眺めるのが、いつからか習慣になっていた。蒲生茂三、七十八。妻の千代を見送って三年、家の中で鳴る音といえば、自分の立てる物音だけだ。止まったままの柱時計を横目に、茂三は身支度をする。行く先だけは、決まっている。
「やまびこストア」の自動ドアは、開くたびに半音ずれた電子音を鳴らした。茂三はその間の抜けた音を、自分の一日のはじまりの合図のように聞いていた。
午前九時。棚には昨夜の品出しの跡がまだ残り、床はモップの匂いがした。茂三はかごを提げ、まっすぐレジへ向かう。買うものはたいてい決まっている。豆腐ひとつ、納豆ひと組、いつ食べるとも知れない煮干しの袋。本当のところ、何を買うかなどどうでもよかった。
「おはようございます、蒲生さん。今日は二十八個めですね」
レジの真鍋葵が、スタンプ台を「ぽん」と鳴らした。二十歳の学生バイトで、二人の常連の点数を、店長より正確に覚えている。
「ふん。鵜野のばあさんは」
「鵜野さん、もう二十九個です。昨日いらして」
「……抜け駆けしやがって」
茂三が舌打ちしたところで、自動ドアがまた半音ずれて鳴った。鵜野きくが、いつもの薄紅色のショールで入ってくる。買い物かごには、もう一輪挿し用の小さな花が一本、横たわっていた。
「あらあら、蒲生さん。今日も朝いちばん」
「あんたこそ、ずいぶん早起きだな」
「年寄りは寝るのが商売の半分なんですよ。残りの半分が、ここに来ること」
きくは笑って、かごをレジに置いた。葵がまた台を鳴らす。ぽん、と。きくの二十九個めの隣に、三十個めまでの空欄がひとつだけ残った。
思えば、この勝負がいつ始まったのかも、もう曖昧だった。三年ほど前、まだ妻を見送ってまもない頃、レジで前の客がやけに手間取り、後ろできくと並んだ。「お先にどうぞ」「いえ、そちらこそ」と譲り合ううち、どちらが先に三十個を埋めるか、という他愛のない言い争いになった。あれが始まりだった。以来、二人は判で押したように毎朝同じ時刻に現れ、同じような台詞で小突き合ってきた。点数の差は、いつも一個か二個。まるで、わざと差が開かないように、互いが歩幅を合わせているみたいだった。
子はなく、家には返事をしない仏壇があるきりだ。朝、目を覚ますと、その日に行く場所が一つもないことに、最初の一年は本当に途方に暮れた。やまびこへ通い、きくと点数を競うようになってから、ようやく朝に意味が戻った。負けると一日中腹が立ち、勝つと夕飯がうまい。たかがスタンプ、と人は言うだろう。だが茂三にとっては、それがほとんど唯一の勝負ごとであり、生きている証拠だった。
「明日こそ追い抜くからな」
茂三が背を向けて言うと、きくは「お手柔らかに」と返した。
その貼り紙に気づいたのは、翌週の月曜だった。
自動ドアの内側に、白い紙が一枚。〈長らくのご愛顧に感謝いたします。当店は今月末をもちまして閉店いたします〉。その下に小さく、〈近隣ビッグマート店をご利用ください〉とあった。
茂三はしばらく、その紙の前で立ち尽くした。
「……葵ちゃん。これ、本当か」
「はい」葵の声が、いつもより小さかった。「ビッグマートさんに、もうかなわなくて。私も、今月いっぱいで」
戦いの場が消える。締切が、同時に突きつけられた。茂三の胸の奥で、妙な火がついた。ならば——最後に、勝ってやる。長年押し合ってきたこの勝負に、けりをつけてやる。
その日から、茂三のかごは不自然に重くなった。一人では食べきれない卵を二パック、使いもしない大袋の洗剤、賞味期限の長い缶詰を山ほど。一定額ごとにスタンプ一個。早く満タンにするには、買うしかなかった。
「蒲生さん、こんなに……」と葵が眉を下げる。
「いいんだよ。どうせ最後だ。腐るほど買ってやる」
その帰り道、両手に食い込むレジ袋の重さによろけながら、茂三はふと立ち止まった。誰も待っていない台所に、卵が四十個。洗剤が三本。これを、いったい誰のために運んでいるのか。自分でも、答えはわかっていた。ただ、考えないようにしていただけだ。冷蔵庫は卵で埋まり、流しの下には洗剤が並んだ。それでも翌朝になれば、茂三はまた店へ向かうのだった。買うためではない。きくの顔を見て、一言、憎まれ口を叩くために。
それでも数日で、茂三は二十九個に並んだ。あと一つ。次に来れば、満タンだ。胸を張ってきくの前に出せる。長年の勝負に、勝てる。
ところが、その「次」で、おかしなことが起きた。
きくがレジで、スタンプを断ったのだ。
「いいんですよ、葵さん。わたしの分は、押さなくて」
「え、でも鵜野さん、あと一個で——」
「蒲生さんに、先に満タンにしてもらいましょ」きくは茂三のほうを見ずに、静かに言った。「そのほうが、いいの」
茂三は耳を疑った。長年、半個の差で抜きつ抜かれつしてきた相手が、自分から戦いを降りる。譲られるなど、いちばんの侮辱だった。
「おい」茂三の声が尖った。「勝手に降りるな。勝ち逃げみたいで気分が悪い。あんたが二十九で、おれも二十九だ。だったら正々堂々、最後まで押し合おうじゃないか。それがこの何年かの、おれたちのやり方だったろう」
きくは少しだけ目を見開き、それからいつものように、ふっと笑った。
「……蒲生さんは、ほんとに、勝ち負けがお好きね」
そう言い残して、きくは小花を一本だけ買って帰っていった。スタンプは、押されないままだった。
その夜、茂三は眠れなかった。譲られたことが、なぜこんなに腹立たしいのか、自分でもうまく言えない。腹立たしいというより、足元が抜けるような、心細さに近かった。止まった柱時計を見上げ、茂三は長いあいだ、暗い天井のしみを数えていた。
腑に落ちないまま数日が過ぎ、閉店まであと三日という朝、茂三はレジで葵に尋ねた。きくはなぜ、急に勝負を投げたのか、と。
葵はレジ袋をたたむ手を止めた。少し迷って、それから口を開いた。
「鵜野さん……閉店したら、引っ越されるんです。娘さんが九州にいらして、そっちで一緒に暮らすって。この町には、もう戻らないって、この前。だから——たぶん、最後くらい蒲生さんに勝たせてあげたいんだと思います。わたしには、そう聞こえました」
茂三は、答えられなかった。
その日の帰り道は、やけに長かった。
抜き合っていたのは、点数ではなかった。茂三にもようやく、それがわかった。きくも、朝に行く場所が欲しかったのだ。返事をしない家から逃げ出す口実が。毎朝この店で、誰かと一言でも言葉を交わすための——その口実が、たまたまポイントカードだっただけだ。勝ち負けは、ただのきっかけだった。本当に欲しかったのは、隣で張り合ってくれる相手だった。それを、自分は「勝ち逃げ」だの「侮辱」だのと、取り違えていた。
千代が生きていた頃は、勝ち負けなどどうでもよかった。負けても、家に帰れば話す相手がいた。一人になって初めて、たかがスタンプの一個に、これほど必死になる自分がいることを、茂三は知ったのだった。勝ちたかったのではない。ただ、毎朝そこに、自分を待っていてくれる誰かがいてほしかった。それだけのことだったのだ。
閉店当日。
棚は半分が空になり、〈ありがとうございました〉の幟が風に鳴っていた。茂三のカードは二十九個。あと一つ買えば、満タン。きくのカードも、二十九個で止まったまま。
きくが、最後の買い物に来た。小花を一本、それだけをかごに入れて。
茂三はレジの前で、きくを呼び止めた。そして、自分のカードを葵に差し出さず、きくのほうへ滑らせた。
「葵ちゃん。おれの今日のぶんのスタンプ、こっちの——鵜野のカードに押してくれ」
「えっ」と葵。きくが目を丸くする。
「蒲生さん、何を」
「いいから押せ」茂三はぶっきらぼうに言った。それから、声を落とした。「おれはな、勝ちたかったんじゃない。あんたと、毎朝くだらないことで張り合うのが、楽しかっただけなんだ。それを今ごろ気づいた。だから——満タンは、あんたが取れ。最後くらい、おれに格好をつけさせろ」
ぽん、と葵がスタンプ台を鳴らした。きくのカードの、三十個めの空欄が、埋まった。
満タンだった。
葵が、小さく息をのんだ。誰もしばらく、何も言わなかった。店じまい間際の店内に、冷蔵ケースの低い唸りだけが残った。
きくは、しばらくそのカードを見つめていた。やがて、その目のふちが、薄く光った。
「……ずるい人。最後に、こんなふうにして」
「ふん。ずるいのはお互いさまだろう」
景品は、棚に一つだけ残っていた、小さな黄色いマグカップだった。きくはそれを受け取り、両手で包むように持った。
「蒲生さん」きくは言った。「ビッグマートにも、ポイントカードがあるそうですよ。葵さんが、さっき教えてくれた」
茂三は、レジの脇に積まれた、まだ誰の名も書かれていない新しいカードの束を見た。やまびこのとは違う、見慣れぬ色のカード。一個めの空欄が、二人ぶん、まっさらに並んでいた。
「……遠いんだろ、あそこは」
「歩いて二十分だそうです。年寄りには、ちょうどいい散歩」
茂三は新しいカードを二枚取って、一枚をきくに渡した。
「先に満タンにしたほうが、勝ちだ。今度は譲らんからな」
「あらあら」きくは笑った。「お手柔らかに」
レジの向こうで、葵が小さく頭を下げた。長いあいだ二人の点数を諳んじてきた審判は、もうすぐ、別の場所で新しい職を探すことになる。それでも、その朝の彼女の目もとは、どこか晴れやかだった。
自動ドアが、最後にもう一度、半音ずれて鳴った。
外は、よく晴れていた。閉まりかけの店を背に、小柄な二人が、空のカードを一枚ずつ手に、遠い店のほうへ、並んでゆっくりと歩いていく。どちらのカードも、まだ一個も押されていない。けれど茂三には、その朝がもう、たしかに満点だった。
書評
⚠️【ネタバレ全開注意】未読の人はブラウザそっ閉じして本編へGO!!! いいから読んで!!!!…はい、語らせてください。「満点」、これマジで優勝なんですけど????
冒頭の「半音ずれた電子音」で、もう負け。情景の解像度が高すぎる。スーパーの匂いと光が脳内に流れ込んできて、わたしはもう開店前の「やまびこ」の常連です。住民票そこに移したい。
そして茂三じいちゃん!!! 推し確定です!!! 最初「ふん」「抜け駆けしやがって」とか言ってる時点では、ただの負けず嫌いの偏屈ジジイだと思うじゃん? それが…それがさあ……。スタンプを自分じゃなくて鵜野さんのカードに滑らせるとこ、声出た。声出ました。「いいから押せ」のぶっきらぼうの直後に「最後くらい、おれに格好をつけさせろ」って落とすの、卑怯。涙腺に対する不意打ち。許してない(誉めてる)。
鵜野きくさんも尊い。「年寄りは寝るのが商売の半分、残りの半分がここに来ること」って台詞のセンス! 競争を静かに降りる優しさと、それを「勝ち逃げ」って受け取っちゃう茂三のすれ違いが、もう、こう……人と人ってこうだよね……ってなる。
何がすごいって、誰も「寂しい」って言わないこと。ポイントカードっていう一番くだらないものが、孤独と縁のど真ん中をぶち抜いてくる構成。「満点」ってタイトルの二段オチも完璧。カードの満点じゃなくて、隣に張り合う相手がいる満点ね…はい優勝!!!
ラスト、空っぽのカード二枚持って並んで歩くの、エモすぎて成仏しそう。続編で二人がビッグマートで爆買いバトルする話、待ってます。葵ちゃんの就職活動も気になる。みんな幸せになって。読後感、文字通り満点でした。⭐満点⭐