コンベヤーの音は、眠気を追い払うというより、眠気に形を与える。ふたのない刺身パックが流れてきて、柚木澄人は右手でタンポポをつまみ、左手で位置を直し、最後に透明なふたをかぶせる。黄色は赤身の横でいつも浮いて見える。薄い手袋越しに、花びらの硬さだけがやけにはっきりしていた。
「今日、タンポポ軽いね」
隣の細谷透子が言った。澄人は手を止めずに「昨日が重かったんじゃないですか」と返す。透子は笑ったのかどうか、マスクの上の目だけではわからない。
「これ、誰のためなんだろうね」
「見た目でしょ。あと、食べちゃだめの目印」
「うん。じゃあ、見た目って誰のため」
澄人は一拍置いて、次のパックにタンポポを置いた。「買う人のため」。
「買う人って、どんな人」
「そこまで知りません」
透子は「だよね」とだけ言って、同じ速度で手を動かし続けた。機械の規則正しい唸りの中で、その二文字だけがなぜか残る。澄人は自分の返事が、うまく逃げ切れたのかどうか判断できなかった。
ラベルプリンタが一度詰まり、ラインが止まる。短い停止の間、盛り付け室の空気が急に人間くさくなる。遠くで誰かがくしゃみをし、別の誰かが腰を叩く。再開のブザーが鳴る前に、透子が小声で言った。
「柚木くん、来週のシフト、減ってるね」
「出してません。たぶん更新しないだけです」
「へえ」
「へえ、で終わるんですね」
「止める理由、聞いてほしいのかと思って」
澄人は返事をしなかった。ブザーが鳴って、手はまた同じ運動を始める。白いトレー、赤、黄色、透明ふた。順番だけは裏切らない。自分の都合や機嫌と無関係に、流れは続く。そういうものに澄人は救われてもいた。
休憩室は蛍光灯が一段階白い。自販機の前で透子が缶コーヒーを二本買い、一本を机に置いた。澄人は「甘いの苦手です」と言いながら開けた。
「若い人って、苦いほうが好きって言うよね」
「若いとかで括られるの嫌いなんで」
「じゃあ、柚木くん個人として、どうして辞めるの」
缶の縁に口を当てたまま、澄人は言葉を探す。探しているのを見られるのが嫌で、早く答える。
「ここ、替えがきくからです。誰でもできる仕事なんで」
「誰でもできるのに、柚木くんは毎回一番速い」
「速くないと意味ないでしょ」
「意味って、速度だけ?」
「ほかにあります?」
透子はすぐには答えず、缶を机に置いた。爪の先が少し欠けている。仕事で欠けたのか生活で欠けたのか、澄人にはわからない。
「私ね、朝は弁当工場、昼は清掃、夜ここ。速さだけで言えば、もっと速い人いくらでもいるよ。でも、あの人と組むと崩れない、ってのがある。崩れないって、けっこう高級なんだよ」
「高級」
「値札つかないやつ」
澄人は鼻で笑った。「そういう綺麗事、好きじゃないです」
「綺麗事に聞こえるなら、まだ余裕あるってことだよ」
「余裕なんかないです。だから切るんです、無駄を」
透子は缶を指で回しながら言った。「無駄って、会話も入る?」
「入ります」
「じゃあ、今ここにいる私は、柚木くんの無駄だ」
その言い方が妙に平らで、澄人は一瞬、躊躇した。強く言い返せば勝てる。でも勝ったところで何が残るのか、うまく計算できなかった。
「……別に、あなた個人がって話じゃなくて」
「うん。個人にすると困るんだよね、たいてい」
休憩終了のチャイムが鳴った。透子は立ち上がり、空き缶を二本まとめて捨てた。「戻ろ。タンポポ待ってる」
ラインに戻ると、最終ロットの表示が出ていた。澄人はいつもどおり最短で手を動かし始める。けれど三列目に入ったあたりで、透子の手元がわずかに乱れた。タンポポの向きが一つ、逆を向く。
「細谷さん、向き」
「見えてる。ありがと」
透子は言って、次を置いた。澄人は自分の速度を半拍だけ落とす。自分でもわかるくらいの微調整だった。
「遅くすると、数落ちますよ」
「うん」
「評価下がるかも」
「うん」
「それでも、まあ、崩れないほうがマシな夜もある」
言いながら、澄人は驚いた。透子の語彙が自分の口から出た。借り物のはずなのに、どこか合っている。作業台の上で、赤と黄色と透明が規則正しく重なっていく。さっきまで刺々しかった空気に、綻びみたいな隙間ができた。
最終ロットが終わって、機械の音が止まる。止まった途端、耳の奥で別の音が鳴る。自分の呼吸の速さだ。部屋の隅で誰かがモップを絞る音まで聞こえる。こんなに細かく音がわかる夜は、たいてい気持ちが落ち着いていない。
更衣室へ向かう廊下で、透子が先にロッカーを閉めた。「おつかれ。明日、私は入るけど」
澄人はカードケースをポケットに入れたまま、出口の前で立ち止まる。辞職届の下書きはスマホにある。送るだけだ。親指は画面の上で止まり、結局どこにも触れない。
「細谷さん」
透子が振り返る。
「明日、たぶん来ます」
「たぶん、ね」
「あと、さっきは……無駄って言い方、よくなかったです」
透子は肩をすくめた。「言い方より、明日来るほうが効くよ」
自動ドアが開いて、夜明け前の空気が流れ込む。冷たいのに、盛り付け室より柔らかい。道路の向こうでコンビニの搬入トラックがバックし、単調な電子音が朝を先取りしている。澄人はスマホをしまった。辞職届は送らないまま、画面だけが暗くなる。
歩き出して数歩で、指先にタンポポの感触が残っているのに気づく。軽い。軽いのに、置く場所を間違えると全部が雑になる。そんなものを何百回も置いた夜だった。誰でもできる、の中に、誰かとでなければ崩れる手つきがある。澄人はそのことを、まだうまく説明できない。説明できないまま、明日のシフト開始時刻だけは確かに覚えていた。