崖の縁で腹這いになり、風を読んでいた。
頬に、腹に、伸ばした四肢の隅々に、冷えた空気が谷底から吹き上がってくる。崖に沿って渦を巻きながら立ち上るその流れを、ただ読み取っているだけではなかった。触れるたびに、体の芯へ何かが注ぎ込まれていく。眠っていた筋の一本一本が、その分だけ目を覚ましていく感覚があった。測るための風ではなかった。飲み干すものだった。
日に炙られた岩肌と、まだ夜の冷たさを残した岩肌――同じ灰色に見えても、その境目は熱のむらとしてはっきりと感じ取れる。境目に沿って風はいつも強く渦を巻く。何百回と繰り返し確かめてきた、体に染みついた地形の癖だった。
風には幾つもの層があった。乾いた土の匂い、遠くの水の匂い、名も知らない植物の匂い。それぞれの層が、風向きの微妙な違いを教えてくれる。伏せた体の下で、地面そのものがかすかに脈を打っているようだった。視界に映るものは、動きと輪郭だけがぼんやりと像を結ぶ。細部までは追えない。それでも困ったことは一度もなかった。
満ちていく力に押し出されるように、体が持ち上がる。地を三度蹴り、翼を大きく広げた。羽ばたきはほとんどいらない。風がすでに、高さを与えてくれていた。
葉擦れの音、遠い水音。地表を滑っていく己の影。羽ばたきの少なさそのものが、体の奥深くに根づいた飛び方の癖だった。
やがて、谷の奥の一角――風化した岩棚――に向けて、体が自然に傾いていく。着地の直前、後ろ足が地を三度蹴る、あの助走の記憶が、順序を逆になぞるように一瞬だけ体を通り過ぎた。
岩棚の下に口を開けた洞は、体を丸めてちょうど収まるだけの広さしかない。この岩棚も、かつて誰かから受け継いだ縄張りの続きだった――説明のつかない、古い馴染みの感覚がある。
洞の奥、体の下に、卵があった。
前脚に抱えられるほどの大きさ。硬い殻の表面は、鼻先でなぞるとかすかにざらついている。重みを確かめるように、そっと抱え込む。殻越しに、規則正しい振動が伝わってくる。自分の心拍とは違う、もう一つの律動。
外の光と、洞の奥の暗がり。その境目に体を横たえ、卵を包み込むように丸くなる。体温を分け与えているのか、分けてもらっているのか、その境目は曖昧なまま溶けていった。それでよかった。
空腹はとうに骨の奥まで染み込んでいたが、この場所を離れる気にはならなかった。体温で温めた岩の匂いと、自分の吐息の匂いが、洞にこもっている。誰も答えない静けさの中で、それだけが確かな輪郭だった。
頭を傾けるたび、右側の角の付け根――根元から欠けた部分――が、重さの釣り合いをわずかに狂わせる。その偏りが蘇らせるのは、痛みの記憶ではない。この縄張りを得た日の、高揚に近い何かだった。
理由もなく、喉の奥から低い音が漏れる。そういうことが、幾度もあった。
言葉ではない。意味を持たせようとしたわけでもない。ただ喉が震え、音になり、卵に向かって流れていく。音を出したあと、体の奥に残るのは、説明のつかない満ち足りた感覚だった。
卵が、その音に合わせるように、かすかに震える。
繰り返すたびに、音の高さはわずかに違っていた。高くなったり、低くなったり。なぜそうなるのか、考えたことはなかった。ただ、喉が震え始める予兆だけは、いつも同じだった。
縄張りの外縁に、見慣れない匂いが混じったのは、光の角度が幾度か変わったのちのことだった。
異物の匂い。獣とは違う、もっと薄く、頼りない匂い。振動から推し量れる重さも、軽い。輪郭も小さい。
それでも、全身の何かが逆立った。体を起こし、翼を大きく広げる。喉の奥から、低い唸りが漏れる。
小さいからといって、容易く手を出していい相手ではなかった。弱い一体を傷つければ、縄張りに執拗な報復が押し寄せる――そのことを、体は覚えていた。骨の奥に刻まれた重さとしてそれはあった。殺すのではなく、追い払う。それだけで十分だった。
唸りに驚いたのか、小さな生き物は慌てて後退した。足音が遠ざかり、縄張りの外縁に静寂が戻る。残された匂いだけが、しばらくの間そこに漂っていた。
その後も、同じ匂いが何度か戻ってきた。
訪れるたびに、纏う匂いの表面は変わった。布の匂い、煙の匂い、汗の匂い。だが、その奥にある根底の匂い――体温の質、体の芯から立ち上る何か――は、いつも同じだった。歩き方の癖、足を運ぶ重心の掛け方も、毎回変わらない。時折聞こえる声の高さも、同じ音域だった。
何度目かの訪れでは、硬質な音が触れ合う響きも混じっていた。何か道具を持ち歩いているらしい。
遭遇を重ねるたびに、距離は少しずつ近くなっていった。そのたびに漏らす唸りも、わずかずつ弱くなっていった。
獲物を探しに谷を出るたび、地を三度蹴る助走のあとに滑空へ移る、いつもの動きを繰り返した。空気に含まれる匂いの質が幾度も移り変わり、光の差す角度が変わっても、その動きだけは変わらなかった。
また、いつものように翼を大きく広げかけて、途中で止まった。
理由は、自分でもよく分からなかった。ただ、唸る代わりに、ただ見つめる時間が長くなっていた。
小さな生き物が縄張りの奥まで進んでも、体はもう動かなくなっていた。匂いの中に、警戒とは違う何かが混じり始めていた。「馴染み」と呼べるかどうかも分からない、ただそこにあるだけの感覚。
それでも、完全に警戒を解いたわけではなかった。体の芯には、いつでも動けるだけの緊張が残っていた。ただ、記憶の中でその匂いが占める場所は、他の何よりも特別なものになっていた。警戒とも、好奇とも呼べない何かの間で、体は揺れ続けた。
またしても、縄張りに近づいてくる、いつもの匂いと足音があった。
反射のように体が起き上がる。翼を広げかける。喉の奥に、唸りのための力が溜まり始める。
そのとき、体の下で、卵の振動が変わった。
いつもより速い。いつもより強い。これまで感じたことのない質の震えだった。意識のすべてが、そこに吸い寄せられる。溜めかけていた喉の力は、行き場を失ったまま、音にならず霧散した。
広げかけていた翼が、意志より先に止まった。自分で止めたという感覚はなかった。止まってしまった、というほうが近い。
小さな生き物の方は、もう見ていなかった。意識は卵に向いたまま、動かない。
近づいてきていた小さな生き物が、その場で立ち尽くす気配があった。何かが変わった、という感覚だけが、体の奥に残っていた。
それからというもの、あらゆる物音に体が跳ねるようになった。
遠くで小石が転がる音にも、地面のわずかな震動にも、全身の皮膚が張り詰める。眠りは浅くなり、常に半分だけ覚醒しているような状態が続いた。
風の中に、輪郭の薄い匂いが混じることもあった。煙の匂い、家畜の匂い、甲高い声とも取れる響き。縄張りの外で蠢く、大勢の生き物たちの気配なのだろう。それでも、縄張りの中までは踏み込んでこない。その一線だけは保たれていた。だから、脅威としては意識されなかった。
卵の振動は、確かめるたびに速く、強くなっていった。理由もなく低く鳴きかける仕草が、これまでよりずっと頻繁になっていた。
食欲は、ほとんど失われていた。それでも、体を動かさないわけにはいかなかった。獲物を追って飛び立ち、仕留め、焼けた匂いを纏ったまま、その足で近くの岩場に降り立つ。巣を離れるのは、ほんのひとときのことだった。振り返れば、巣の入り口の輪郭も、こもった匂いも、まだ十分に感じ取れる距離だった。
そのとき、いつもと違う場所に、あの小さな生き物の匂いがあった。巣に、いつもより近い。
理由のはっきりしない不快感が、喉の奥を這い上がった。唸りにはならない、小さな軋みだけがそこに残った。
頭を巡らせるたびに感じる、あの重さの偏り。高揚に近かったはずのその感覚は、今はどこか落ち着かなさと混じり合っていた。
巣のある方角で、小石が転がる乾いた音を立てた。
気にも留めなかった。だが、二度目に伝わってきたのは、地面そのものを伝う、かすかな震動だった。風の匂いにも、土の動く気配が混じっている。
さっきの不快感が、そのまま形を変えて、説明のつかない胸騒ぎになった。
次の瞬間、巣のある方角から、轟音が空気を震わせた。
崩れた稜線の向こうに、土埃の立ち上る様子が見えた。反射的に、体が跳ね起きていた。
翼を広げる間も惜しんで、岩場を蹴って駆け出す。わずかなはずの距離が、今はどこまでも遠く感じられた。崩れた地形が行く手を阻み、思うように進めない。土埃で嗅覚が乱れ、一瞬、方角さえ見失いかけた。
ようやく辿り着いた巣は、見覚えのある窪みではなく、瓦礫の山になっていた。
土砂を前脚で掻き分ける。体のあちこちに、岩の角が食い込んでいた。それでも構わず、掻き分け続けた。粉塵のせいで、匂いが一時的に読めない。焦りだけが募った。
何度掻き分けても、卵の重みは手に触れなかった。
巣の窪みに、卵はなかった。
その空白の意味を理解するより先に、体が動いていた。何度も鼻先を地面に押しつけ、匂いを探る。
小さな生き物の匂いが、いつもより強く、濃く残っている場所があった。その匂いは、巣の外へ向かって続いていた。遠ざかっていく足音の軌跡、薄れていく匂いの筋。それを追う。
言葉にならない何かが、一瞬だけ体の奥をよぎった。誰もいない巣の広さ、かつて誰かから継いだその静けさと、よく似た手触りの古い感覚だった。
もう、迷いはなかった。
三歩、地を蹴る。翼を大きく広げる。上昇気流を捉え、羽ばたかずに高度を稼いでいく。
谷の奥から、喉の奥を絞るような咆哮が放たれた。
遠ざかっていく匂いの筋を、追って。