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竜脈の谷
崖の縁で腹這いになり、リーゼ・カルディナは風を読んでいた。
竜脈の谷は、朝のこの時間だけ静かになる。切り立った岩壁が朝日を遮り、谷底には青白い影がまだ長く伸びている。夜の間に冷えた空気が、日の出とともに温められて上へ上へと押し出されていくのが、頬で分かるほどはっきりと感じ取れる。岩肌に張り付いた苔の匂いと、朝露に湿った石の冷たさが、頬杖をつく掌に染みる。誰もいない、誰も来ない場所だった。禁足地に踏み入る酔狂な人間は、彼女以外にいない。
指先を舐め、額の高さに掲げる。冷たい空気が谷底から吹き上がり、右の頬から後頭部へと抜けていく。上昇気流だ。この谷は風上から風下へまっすぐ流れるのではなく、崖に沿って渦を巻きながら立ち上る。彼女はそのことを、もう半年近くかけてノートに書き溜めてきた。書き溜めた、というのは少し違うかもしれない。誰に読ませるあてもない記録を、ただ積み上げてきただけだ。
木枠にレンズをはめ込んだだけの、粗末な観測器具を覗く。市販の魔道具なら、対象を自動で追尾し、距離や温度を数字で示してくれるだろう。けれどそれは魔法に頼った便利さであって、現象そのものを説明する力にはならない。リーゼの道具は倍率も低く、手も凍えるほど重いが、それでも彼女にとってはこの世界で唯一、噓をつかない目だった。
いつもの観測点は、ここよりずっと谷の入口寄りにある、安全に離れた岩棚だった。けれどこのひと月ほど、目当ての個体は決まってこの奥の一角から動かなくなっていた。まるで何かを見張るように、同じ岩棚の周りを離れない。おかげで観測は捗ったが、その分だけリーゼ自身も、気づけば少しずつ奥へと足を運ぶようになっていた。今日もそうして、崖伝いに半刻ほどかけて忍び寄った先が、この縁だった。
少し先、風化した岩棚の上に、目当ての個体がいる。
「――やっぱり。今日も三歩」
小さく声に出して、確かめる。離陸の前に必ず三歩、助走をつける。翼を持ち上げるより先に、後ろ足で地を三度蹴る仕草。他の個体では見たことのない癖だった。右の角が根元から欠けているその竜を、リーゼは観測ノートの中で「欠け角」と呼んでいた。最初はただの識別番号のつもりだった符牒が、半年通い続けた今ではすっかり名前として馴染んでいる。数字よりも、この渾名のほうが個体の癖をよく覚えていられる。それだけの理由だった――と、自分では思っている。
欠け角が翼を広げる。三歩、助走。地を蹴る。そのまま滑るように舞い上がり、谷底から吹き上げる上昇気流に乗って、ほとんど羽ばたかずに高度を稼いでいく。羽ばたきの回数を数えようとして、ほとんど数えるまでもないことに気づく。
飛び立つ直前、喉の奥から低い音が漏れるのをリーゼは聞いた。威嚇とも唸りとも違う、もっと優しい響き。この一角を離れない理由と、何か関係があるのだろうか。ノートの端に「発声、種別不明。要継続観測」とだけ書き足して、深くは考えなかった。
(あの体格で、翼面積だけでは絶対に足りない。何度計算しても足りない。谷の風を使っているんだ。だったら――風のない、開けた場所では、どうなる)
ノートの端に走り書きをする。「欠け角、谷の上昇気流に飛行を依存か。開けた地形での飛行、未観測。要検証」。書きながら、少しだけ笑いそうになる。検証する機会など、一生訪れないだろうと思っていたからだ。
欠け角が、ふいに首をぐいと反らせ、顎を天に向けた。喉の奥がわずかに赤く発光する。リーゼは反射的に身を伏せた。焦げた匂いが鼻先をかすめ、遠く谷底で何かが焼ける乾いた音がした。獲物を見つけたのだろう。首を反らせて力を溜める、あの仕草。吐息を放つ前には必ずこの動作が入る。ため込むだけの時間が要るらしく、一度放てば、また喉が光り出すまでにはしばらくの間があった。誰も知らない、彼女だけの発見だった。
アルダインの大学で、この観測手法を発表しようとしたときのことを思い出す。円卓の向こうで指導教官が眉をひそめていた。「竜は魔法生物です。飛行原理を物理で解こうとすること自体が、そもそも不敬でしょう」。周りの学生たちは苦笑し、誰も彼女の側に立たなかった。発表の後、教官室に呼び出されて言われた一言も、今もはっきり覚えている。「谷には近づくな。あれは信仰の話であって、学問の話じゃない」。忠告には従わなかった。発表を終えて資料を片付ける間、「揚力係数って何の呪文?」と隣の学生に囁く声が聞こえた。二人で笑っていた。感謝の所作、指を組み短い言葉を唱える仕草もせずに実験器具を扱う彼女を、皆が苦い顔で見ていた。
あの日以来、大学に居場所はない。それでも部屋を出るとき、リーゼは振り返らなかった。悔しさより先に、次はどう測るべきかという算段のほうが頭を占めていたからだ。もっとも、その算段がいつか誰かの役に立つ日など、本当に来るのだろうか。時々、ふとそう思う自分もいる。私費で組んだレンズと木枠。それが今のリーゼの、たった一つの武器だった。
リーゼが陣取っているのは、崖から張り出した岩棚の先端だった。下を覗き込めば、岩の隙間から奥へと続く暗がりがある。何かの洞のようだと思ってはいたが、確かめたことはない。欠け角がこの一角を離れないのも、きっとこの洞と関係があるのだろう。そこまでは、まだ考えが及んでいなかった。
足元で、小石の転がる音がした。
気にも留めなかった。ノートへの書き込みに気を取られていたから。二度目の音で顔を上げたときには、もう遅かった。足の裏から伝わる震動が、一拍遅れて轟音になった。視界が斜めに傾ぎ、崖の縁だったはずの場所は、崩れる土砂の一部になっていく。
崩落だった。
とっさに転がり込んだ先は、岩棚の陰にできた狭い隙間だった。頭上を岩塊がいくつも通り過ぎていく音がする。粉塵が舞い、喉に土埃が絡みつく。目を閉じ、耳を塞ぎたい衝動を堪えながら、リーゼは体を丸めて待った。どれくらいそうしていたのか分からない。やがて轟音が遠のき、代わりに静寂が耳の奥に痛いほど響いた。目を細めたその暗がりの中に、丸みを帯びた大きな塊がある。手を伸ばし、触れた。
温かい。
考えるより先に、体が動いていた。崩れ落ちる岩に押されるまま、リーゼはその塊を片腕で抱え込み、駆け出していた。足場が次々と崩れる。土埃で前が見えない。喉が渇いて張り付く。踝を岩角にぶつけ、痛みを感じる余裕すらなかった。一度、体勢を崩して膝をつく。それでも立ち上がり、また走った。腕の中の重みだけが、はっきりとした感覚として残っていた。
谷の外縁までたどり着いて、ようやく足が止まった。荒い息をつきながら、腕の中の重みを確かめる。
サッカーボールほどの大きさ。表面は硬く、けれど生き物めいた温かさがある。指先に、かすかな振動が伝わった。心臓の鼓動のような、規則正しい律動。
血の気が引いていくのが、自分でも分かった。何度も指でなぞって、確かめる。硬い殻。丸みを帯びた輪郭。伝わる鼓動。学術用語をいくら並べても、目の前のこれを別の何かだと言い張ることはできなかった。
不思議と、悲鳴は出なかった。涙も出てこなかった。代わりに頭の隅で、いつもの癖が動き出す。――この震えは恐怖か、それとも単に走った直後の心拍か。両方だとしたら、比率はどれくらいか。
『動くものは、なぜ動くか』の一節が、勝手に頭の中で立ち上がる。観測者は、対象を疑う前に、まず自分自身を疑わねばならない。ヴォルダーの言葉だ。震えているのは卵を前にした恐怖のせいなのか、それとも単に、自分がまだこの状況を正しく測れていないだけなのか。こんな時にまで観測者でいようとする自分に、リーゼは半分呆れ、半分だけ安堵した。少なくとも、まだ考えることはできている。
(これは――)
答えを言葉にしようとした矢先、谷の奥から咆哮が響いた。空気そのものが震えるような低い音。周囲の木々が一斉にざわめき、鳥の群れが飛び立つ。
見上げた空に、逆光を背負った翼のシルエットがあった。欠け角だった。
足がすくんだ。けれど卵――間違いなくそれは卵だった――を抱えたまま、リーゼは走り出す以外の選択肢を持たなかった。
背後で熱気を帯びた風が膨らむのを感じた瞬間、岩陰に身を投げていた。頬のすぐ横を、熱の塊が通り過ぎていく。土が焦げる匂い。「離陸には助走が要る」。ノートに書いたばかりの一文が、頭の中で勝手に繰り返される。まっすぐには来られないはずだ。地形を使えば、稼げる時間がある。
すべての力には、それに応じた反作用がある。逃げる力にも、必ず対になる何かがある――ヴォルダーの言葉を、こんな場面で思い出すとは考えもしなかった。欠け角の突進という力に対して、こちらにも使える何かがあるはずだ。地形、重さ、助走の要る翼。数えるほどしかない手札を、頭の中で並べ直す。
一度目をやり過ごしても、羽ばたきの音はすぐにまた近づいてきた。灌木の切れ目を抜けようとした瞬間、頭上の梢がまとめて薙ぎ払われる。爪が空を切る音。土と葉が舞い散る中を、リーゼは転がるようにして岩の隙間に滑り込んだ。心臓が耳の奥で鳴っている。それでも足は止めなかった。
一度、二度と、崖と灌木を縫うようにして走り続け、森の入り口でようやく足を止めた。荒い息を吐きながら、卵をもう一度確かめる。腕の中で、自分の心臓の音と卵の鼓動が、奇妙に重なって響いている気がした。膝が笑っている。座り込みたい衝動を、リーゼは意志の力だけで押し留めた。
(どうする。どこへ――)
考えがまとまらないまま顔を上げたとき、谷の外、遠く集落のある方角に、一筋の細い煙が立ち上っているのが見えた。
風のない、まっすぐな煙だった。狼煙のように。
竜の咆哮に呼応するように、その直後に立ち上ったもの。偶然だとは、とても思えなかった。リーゼは卵を抱え直し、森の奥へと足を向ける。振り返る余裕はなかった。今はただ、少しでも遠くへ。そう思うだけで、精一杯だった。
#
二人
森の中を進むリーゼの耳に、絶え間ない葉擦れの音が張り付いていた。木々の間を、大きな影が縫うように動く。ときおり地面が低く震え、その震動だけで欠け角がどれほど近いかが分かった。木の根に足を取られかけ、リーゼは体勢を立て直す。速度を落とすわけにはいかない。
腕の中の卵は重い。最初は片腕で抱えていたつもりが、気づけば両腕で胸に抱え込んで走っていた。喉が張り付くほど渇いているのに、それを確かめる余裕すらなかった。唾を飲み込む音が、やけに大きく耳の奥で響いた。汗が目に染みる。拭う暇もない。
倒木に、青白く光る苔が張り付いているのが視界の端をかすめた。自然の発光なのか、それとも魔法の残滓なのか――そんな分類を試みようとする自分に、こんな時にまで、と半ば呆れる。足を止めて確かめたい衝動を、リーゼは奥歯を噛んで押し殺した。
背後で空気が変わった。振り返らずとも分かる。木々の隙間から差し込む光が、一瞬赤みを帯びた気がした。
首をぐいと反らせ、顎を天に向ける。あの仕草だ。喉の奥にわずかな赤い光が滲む。焦げた匂い。頭で考えるより先に、体はもう動いていた。
声に出す間もなく、リーゼは身を投げ出していた。熱波が頭上を薙ぎ払う。空気そのものが一瞬膨れ上がるような圧を感じた。焦げた枝葉の匂いが鼻をつく。転がるように起き上がると、木の幹に焼け跡が黒く残っていた。人ひとり分の高さ、ちょうど先ほどまでリーゼの頭があった辺りだった。
生きている。心臓が痛いくらいに脈打っている。
震える手で、腰の袋から観測ノートを引っ張り出そうとする自分に気づき、リーゼは失笑した。こんな瞬間にまで、記録を取ろうとする。
一度の成功は偶然でありうる。二度目でようやく、法則と呼べる――ヴォルダーの言葉が、頭の中で勝手に浮かぶ。もう一度同じ回避ができれば、あの予兆は確かな法則だと言える。
同時に、小さな違和感が胸の奥をかすめた。あの一撃、妙に間遠かった。一直線に仕留めようとする様子もない。まるで、わざと狙いを外しているかのようだった。
考えを追う余裕はなかった。すぐ後ろで、また羽ばたきの音が近づいてくる。今はただの気のせいだと、リーゼは自分に言い聞かせて先を急いだ。走りながら思考を強引に切り替える。今はただ、足を動かすことだけを考えろ。
行く手を、崩れた岩と倒木が塞いでいた。左右も切り立った崖。進退窮まる、という言葉がそのまま形になったような場所だった。引き返せば欠け角の進路と正面からぶつかる。進める道は、どこにも残っていなかった。
遠くで獣の遠吠えが響き、それに驚いた鳥の群れが梢から一斉に飛び立つ。誰もいない。助けも来ない。喉の奥から、悲鳴とも呻きともつかない音が漏れそうになる。
恐怖は感情ではない。ただの、速い脈拍の別名だ。心の中で繰り返す。それでも、脈は速いままだった。理屈は、いつも脈拍を鎮めてはくれない。分かっていても、唱え続ける以外に今のリーゼにできることはなかった。
そのとき、横合いの茂みから伸びた手が、リーゼの肩を強く引いた。
「そこ突っ立ってると死ぬぞ」
低い声だった。振り向く間もなく体を引きずられ、狭い岩の隙間に押し込まれる。抵抗する暇もなかった。目の前にいたのは、無精髭を生やした、体格の良い男だった。背に弓、腰に使い込まれた投げ縄。革の防具はあちこち傷だらけで、明らかに使い慣れている。値踏みするような目でリーゼを一瞥し、それから彼女が抱えているものへとちらりと視線を移した。何も言わなかったが、覚えておく、という気配だけが伝わった。
「動け。喋るのは後だ」
「あなたは――」
「後回しだ、って言ったろ」
二人で走り出したものの、息はまるで合わなかった。男が右へ跳べばリーゼは左へ、リーゼが止まれば男は前へ出る。互いの体がぶつかりかけ、そのたびに男が短く舌打ちをした。狭い岩の隙間では、逆に男の体格が仇になった。肩を岩に擦りつけながら無理やり体をねじ込む男を尻目に、リーゼは小柄な体で難なくすり抜ける。今度は男が舌打ちする番だった。
「理屈はいいから走れ」
「理屈があるから走れるのよ」
噛み合わないまま、それでも二人は森を抜けていく。卵をどちらが抱えるかで一瞬揉めたが、男が伸ばした手を、リーゼは体をひねって避けた。結局、卵は最後まで彼女の腕の中にあった。
木の枝が頬を掠め、細い切り傷ができる。痛みを感じる余裕もなく、リーゼはただ男の背中だけを追いかけた。大きく盛り上がった木の根に行く手を阻まれ、片腕が塞がったままでは跨ぎきれない。躊躇う間もなく、男の腕がリーゼの脇に差し込まれ、乱暴に引き上げられた。礼を言う暇もなく、また走り出す。
沢音が近づいてきた。男は迷わず浅瀬に踏み込み、水音で足音を消しながら下流へと進んでいく。リーゼも倣った。冷たい水が足首を刺し、思わず息を呑む。石の上で足を滑らせかけ、なんとか踏ん張った。しばらく進んで岩陰に身を潜めると、羽ばたきの音は次第に遠ざかっていった。膝に手をつき、リーゼは肩で息をする。全身が汗と水に濡れ、それでも寒さより先に、心臓の音がまだうるさかった。
しばらくの間、どちらも口を開かなかった。水を滴らせる音だけが、岩の隙間に規則正しく響いている。
男が先に動いた。片方の靴を脱ぎ、逆さにして水を切る。命からがら逃げてきた直後にはおよそ不釣り合いな、のんびりとした仕草だった。
リーゼは無意識に、腰の袋へ手をやっていた。中の観測ノートが濡れていないか――卵より先に、道具の無事を心配しかけている自分に気づき、思わず苦笑する。
「腹減ったな」
男が唐突に漏らした一言に、リーゼは面食らった。竜に追われ、卵を抱え、この先には何が待っているかも分からないこの状況で、真っ先に出てくる感想がそれなのか。
木々の隙間から、一瞬だけ青空が覗いた。何事もなかったかのように、鳥が呑気に鳴いている。世界ののんびりとした顔つきと、自分たちの置かれた状況との落差に、リーゼは奇妙な眩暈を覚えた。
そののんびりとした空気の中でも、ヨルグの目だけは絶えず木立の隙間を往復していた。靴を履き直す手も、決して止まってはいなかった。
汗と川の水を吸った服が、肌に重くまとわりついている。観測器具の入った袋も、いつもよりずっしりと肩に食い込む気がした。誰に聞かせるでもない愚痴が、喉の奥まで出かかって消える。
「…助かった」
「礼はいい。名前は」
「リーゼ。リーゼ・カルディナ」
「ヨルグだ」
男の背にある弓と、上着の内側から覗く紋章に、リーゼは目を留めた。見覚えのある意匠――竜討伐部隊のものだ。金具の作りも、矢の羽根の切り方も、市販品とは明らかに違う。
観測の癖は、こんな時にも顔を出す。上背は自分より頭ひとつ半は高い。利き手は右。右の前腕に古い傷跡――刃物ではなく、何か熱いものによる火傷の痕らしい。意識してのことではなく、数え終えてから初めて気づいた。
「値踏みすんな」
じろりと睨まれ、リーゼは目を逸らした。
「二十七」
「は?」
「年齢。聞きたそうな顔してた」
「…三十二だ」
聞いてもいないのに返ってきた数字に、リーゼは少しだけ拍子抜けした。
「あなた、竜騎士?」
「元、な」
「どうしてこんな場所に」
「谷に近づく馬鹿がいないか見張ってた。自警団に頼まれてな」
それ以上は語らなかった。リーゼは装備を観察しながら質問を重ねた。矢の重心はどこにあるのか。投げ縄の素材は竜の熱にも耐えるのか。ヨルグは「知るか」「使えりゃいい」とはぐらかすばかりで、まともに答える気配はなかった。
「観察するなら、まず生き延びる算段をしろ」
「それも観察のうちよ」
ヨルグは呆れたように鼻を鳴らした。
「さっきの回避、勘じゃない。あの個体は吐く前に首を反らす。喉の発光が予兆で、そこから力を溜める間があって――」
「…で、結局どっちに逃げればいい?」
早口で説明した内容のほとんどを素通りし、ヨルグは本題だけを拾った。リーゼは一瞬言葉に詰まる。せっかくの説明を丸ごと聞き流された苛立ちより先に、要点だけを掴み取る要領のよさに、少しだけ感心してしまった。
「東。上流に向かえば、稜線沿いに回り込める」
「勘か」
「観測データよ。欠け角の索敵範囲は半径にしておよそ谷底から二百歩程度、というのがこれまでの記録」
「勘だ、それは」
「違う。半年分の記録に基づいた予測」
「おれの勘も、それなりの年季が入ってる」
遠く、谷の方角から低い地鳴りのような音が届いた。二人同時に口をつぐみ、身を固くする。しばらく耳を澄ませたが、それきり音は続かなかった。ヨルグが小さく息を吐き、リーゼも強張った肩の力を抜く。
譲らないヨルグに、リーゼはため息をついた。会話の噛み合わなさに、少しだけ可笑しさが混じる。それでも二人の足は、同じ方向へ向いていた。
ふいにヨルグが足を止め、鼻を鳴らして周囲の空気を嗅いだ。
「何の匂い?」
リーゼは即座に食いついた。ヨルグは面倒くさそうに片眉を上げただけで、答えなかった。
そのとき、抱え直した拍子に外套の合わせ目がずれ、丸い輪郭が覗いた。ヨルグの視線がそこに吸い寄せられる。それまで軽口を叩いていた表情が、すっと消えた。
「…それ、何だ」
「卵」
「は?」
「竜の、卵」
ヨルグの顔から表情が抜け落ちた。しばらく声も出せずに、卵とリーゼの顔を交互に見比べている。ようやく絞り出した声は、これまでよりも低く、硬かった。
「捨てろ。今すぐ」
「できない」
「正気か。それを抱えてる限り、あの竜は絶対に諦めないぞ。おれたちがどこへ逃げようが、な」
「わかってる。それでも」
リーゼは卵を抱く腕に、無言のまま力を込めた。
ヨルグはしばらく卵を睨みつけていたが、やがてぽつりと聞いた。
「その卵、名前あるのか」
「欠け角の――」
言いかけて、リーゼは口をつぐんだ。親の名で子を呼ぶのは、明らかに違う。かといって、他に呼びようもなかった。答えられないまま黙り込んだリーゼを、ヨルグは怪訝そうに見た。
「見張りの仕事はどうするの。私を見つけたら、本当は通報するべきなんじゃ」
「…今さらだ」
短く返って来た答えに、それ以上の説明はなかった。ヨルグは苦い顔で頭をかき、それきり黙り込んだ。自分がどちら側に足を踏み出したのか、彼自身にもまだ整理がついていないようだった。
しばらく睨み合った後、ヨルグは大きく息を吐いた。片手で顔を覆い、何かをこらえるような仕草をする。
「…あんたの理屈とやらに、賭ける他ないみたいだな」
「利害が一致してるだけ」
「好きに言え」
二人は握手も交わさなかった。ただ互いに小さく頷き、ヨルグが水筒を差し出し、リーゼがそれを受け取る。生ぬるい水が喉を通る感触に、初めて自分がどれほど渇いていたかに気づいた。
「なぜ助けたの、最初」
「さあな」
それ以上は聞かなかった。聞いても、まともな答えは返ってこない気がした。それだけで、当面の同盟は成立したらしかった。
「これからどうする」
「村を避けて、尾根伝いに東へ」
リーゼの提案に、ヨルグは地形を見渡してしばらく黙り、頷いた。川筋、尾根の稜線、木々の密度――彼が何を見て判断しているのか、リーゼには手に取るようには分からなかったが、その目つきだけは真剣だった。
「あの二股に分かれた古木のあたりで、獣道が水場に向かって折れてる。風にも湿った匂いが混じってる」
ヨルグが顎で示した先を、リーゼは目を細めて追った。彼女には木の形の違いくらいにしか見えない。代わりに彼女が見ていたのは、頭上を渡る雲の流れと、まだ低い位置にある太陽の角度だった。気流の向きから逆算すれば、進むべき方角の見当はつく。
二人は無言のまま頷き合った。歩き出す前に、ヨルグは無意識のような仕草で腰の投げ縄に手を触れ、それからようやく足を踏み出した。
言い合いながらも、二人は歩き出す。日は少しずつ高くなり、汗が背中を伝う感触にも、いつの間にか慣れ始めていた。
その足を止めさせたのは、遠く響いた角笛の音だった。
一度、二度。間を置いてまた一度。合図のような、規則正しい響き方だった。
続いて、木立の向こうに点々と揺れる灯りが見える。松明の列だった。数にして十を超えるだろうか。ゆっくりと、けれど確実に、谷の方角から広がるようにして動いている。
リーゼとヨルグは、思わず顔を見合わせた。どちらも、言葉が出てこなかった。
#
オルバ村
結局、松明の列を避けるように北へ迂回してから、改めて尾根伝いに東を目指す道へ戻った。その道中、リーゼは何度か、ヨルグの上着の内側にちらつく竜討伐部隊の紋章へ視線をやった。
「その紋章、正式な意匠?」
「昔の話だ」
言葉少なに流され、それ以上は続かない。それならばと、右前腕の傷跡に話を振ってみる。
「じゃあ、その傷は」
ヨルグの足が、ほんの一瞬だけ止まった。すぐにまた歩き出し、何も答えなかった。表情が固まるほんの数秒の間だけが、そこに何かがあることを物語っていた。リーゼはそれ以上追わなかった。観測は、対象が逃げる時には無理に追わないほうがいい。
代わりに、話題を変える。
「歩幅、合わせたほうが体力を温存できる。私の歩幅の一・二倍が、あなたにとって一番楽なペースのはず」
「几帳面だな」
ヨルグは呆れたように言いながらも、わずかに歩調を落とした。二人分の荷物をどちらが多く持つかで小さく揉め、結局リーゼが観測器具を、ヨルグが水と食料を担ぐことで落ち着いた。先導は自然とヨルグが務める形になった。
しばらく歩くうち、リーゼの足がふらついた。空腹のせいだ。声には出さなかったが、ヨルグは横目でそれに気づいたらしく、何も言わずに歩調をさらに緩めた。礼を言うのも変な気がして、リーゼも黙って歩き続けた。
木々の切れ間から、谷を望む斜面の下に、小さな集落が見えてきた。
石積みの家々が寄り集まり、中央には粗末な祭壇がある。竜脈教の紋章を染め抜いた旗が、風にはためいていた。軒先という軒先に、木彫りの小さな竜の護符が吊るされている。井戸端には、朝の水汲みだろうか、数人の人影が集まっていた。
「遠回りするか」
ヨルグの問いに、リーゼは即座には答えられなかった。喉はとうに限界を超えて渇いている。空腹で手先が震え、視界の端が時折ちらつく。
「…水と、食べ物が要る」
答える声は掠れていた。風に乗って、焼きたてのパンと家畜の匂いが入り混じった生活の匂いが漂ってくる。腹の虫が、情けないほど大きく鳴った。
卵を外套の内側にしっかりとくるみ直し、リーゼは村への小道を下り始めた。
村に入ると、視線を感じた。
魔法を使うたび、村人たちは指を組み、短い言葉を唱える。井戸で水を汲む老女も、パン種をこねる女も、誰もがそうしていた。リーゼだけが、その仕草をしない。意識してではなく、単に身についていないからだ。それだけのことなのに、通り過ぎるたびに視線が刺さる。
井戸端の女たちが、値踏みするような目でリーゼを見た。何かひそひそと言葉を交わしている。「谷の方角で竜の声がした」という断片が、風に乗って耳に届いた。リーゼは外套の合わせ目を、無意識のうちにきつく握り直した。
村の広場に差し掛かったところで、ヨルグが不意に足を止め、リーゼの肩を掴んで路地の陰に引き込んだ。
武装した一団が、広場を横切っていく。鎌や古い槍、腰に下げた角笛――自警団だ。人数は五、六人。先頭を歩く恰幅のいい男が、周囲を睥睨するように歩いている。
その視線が路地の方をかすめた瞬間、ヨルグの体が硬くなった。
「知り合いか」
「…いや」
短い否定だったが、目は男の一人から離れなかった。谷の警備を回っていた頃の記憶がよぎったのかもしれない。リーゼは黙って、その横顔を観察するだけにとどめた。
「――谷の方角、あれは本当に竜の声だったのか」
「確かめに行くって話だ。上の判断待ちで、みんな慎重になってる」
自警団員同士の会話の断片が、風に乗って届く。リーゼの心臓が跳ねた。靴擦れで潰れたまめが鈍く痛むのも構わず、二人は積み荷を載せた荷馬車の陰へと身を縮めた。
先頭の男の視線が、こちらの方向へ向きかけた。
リーゼは息を止めた。卵を抱いた腕に、汗が滲む。
そのとき、ヨルグが表情を切り替え、路地から悠然と歩み出た。
「よう、精が出るな」
自警団の一人に、まるで顔なじみのように声をかける。男が怪訝そうに振り返った。
「…お前、見ない顔だな」
「知り合いの娘を送り届けてるとこだ。谷向こうの学者様でな、巡礼の許可証を忘れたとかで、アルダインまで送り返すところだ」
なめらかに紡がれる嘘に、リーゼは慌てて話を合わせた。
「観測の旅の途中で…申請の手続きが漏れていて。すぐに立ち去りますので」
理屈っぽい早口の言い訳が、かえって学者らしさを補強したのか、男は疑わしげな顔をしながらも、それ以上は追及してこなかった。遠く谷の方角から、地を這うような低い震動が一瞬届いた。確かめている余裕はなかった。
その隙に、リーゼは抱えていた卵の重みを庇うように、不自然に体を縮めていた。男の視線がふとそこに留まりかける。
「腹の子がな、こう、揺らすとぐずるもんで」
ヨルグが咄嗟に付け加えた出鱈目に、リーゼは一瞬言葉を失った。冗談にしては際どすぎる。だが男は、遠くで別の若い衆が何か叫ぶ声に気を取られ、そのまま興味を失ったように視線を逸らした。
「行けよ、早く」
追い払うように言われ、二人はそそくさとその場を離れる。
裏道は、ヨルグが先に立って選んだ。村の子供たちが井戸端で話していた「あっちの道は崩れてる」という立ち話を、リーゼが観測癖でしっかり聞き取っていたことも、密かに役に立っていた。
村外れまで抜けたところで、背後から鐘の音が響いた。
一度、二度、三度――途切れない連打だった。犬が一斉に吠え出す。振り返ると、村人たちが窓や戸口からこちらを覗き見ていた。遠ざかる二人を追うような、警戒するような視線ばかりだった。
「まずいな」
ヨルグが短く呟き、リーゼの手を引いて走り出す。
「本当に見つかったの」
「…かもな」
それ以上の説明はなかった。鐘の意味を正確に知る術はない。分からないまま、ただ足を動かすしかなかった。
村から充分に離れ、灌木の茂みに身を隠したところで、ようやく足を止める。
肩で息をしながら、リーゼは抱えていた卵に目を落とした。
いつもと違う。
耳を当ててみる。硬い殻越しに伝わる感触が、明らかに人肌より熱い。鼓動のような微振動も、これまでよりずっと間隔が短くなっている。
「どうした」
ヨルグが気づいて聞いてくる。リーゼは説明しようとして、言葉に詰まった。まだ確信が持てない。持てないまま、震える手で観測ノートを開き、数字を書き込んでいく。時刻。体感温度。振動の間隔。書きながら、指先の震えが止まらなかった。
過去に観測した別個体の記録を、頭の中で引っ張り出す。孵化が近づくにつれ体温が上がり、振動の間隔が縮んでいく――谷で見た、別の巣の記憶と照らし合わせる。データはあまりに少ない。それでも、比較できるものが皆無ではないだけ救いだった。
「わからないことは、まだ測っていないだけのことだ」
ヴォルダーの言葉を胸の中で唱え、リーゼは数字を並べ直す。
「――孵る。もうすぐ」
ようやく絞り出した一言に、ヨルグの表情がこわばった。
「もうすぐって、いつだ」
「あと半日。長くても、一日」
「そんなに正確に分かるのか」
「誤差は大きい。でも、ゼロよりはまし」
正直に答えると、ヨルグは何も言わずに小さく頷いた。二人は言葉を切り、卵の振動のリズムに、しばらく無言のまま耳を澄ませた。刻一刻と時間が削れていくのが、その規則正しい律動から伝わってくるようだった。
半日。長くても一日。数字にしてしまうと、答えは一つしかないように思えた。リーゼは自分の考えをまとめるように、一度大きく息を吸ってから口を開いた。
「谷に、戻る」
言葉にした瞬間、自分でもその重みに息が詰まった。竜と人間、両方から追われている今、自分から追っ手の巣に近づくことがどれほど馬鹿げているか。分からないはずがなかった。それでも、他に道が思いつかなかった。
ヨルグは何も言わず、しばらくリーゼの顔を見つめていた。冗談だと思おうとして、思えなかったのだろう。やがて、絞り出すように口を開いた。
「谷に戻るなんて自殺行為だ。竜がいて人間までいる場所に、自分から飛び込む気か」
「戻らなければ、この子は孵化した瞬間に、人間しかいない場所で独りになる」
「情に流されてるだけだろう」
「情じゃない。生存率の話」
言い返しながら、リーゼは自分の声にわずかな揺らぎがあるのを感じていた。本当に、これは理屈だけの結論なのか。確信は持てなかったが、それを認める余裕もなかった。
「…卵だけどこかに隠して、おれたちだけでも逃げるって手もある」
「それはできない」
即座の拒絶に、ヨルグは苦い顔をした。それ以上は言わず、ただ深く息を吐いた。
「時間が無いんだろう」
「あと半日」
「なら、考えながら歩け」
投げやりな口調だったが、彼の足はもう歩き出していた。リーゼは卵を抱え直し、その後を追う。
日が傾き、夕闇が山肌を紫色に染め始めていた。
谷の方角から、低い咆哮が届く。欠け角だ。ほとんど同時に、遠く反対側の稜線に、点々と連なる松明の列が見えた。森で見たものより数が多く、先頭は既に稜線を越えかけている。オルバ村の鐘が呼び寄せた増援だろう。
竜と、人間。二つの脅威が、前よりも近い距離で、同時に視界に入っていた。
#
欠け角の理由
日が完全に落ちると、辺りは驚くほど暗くなった。
焚き火は焚けない。松明の列に、自分たちの位置を教えるようなものだ。岩の窪みに身を寄せ合うようにして座り込むと、冷え込みが一気に骨まで染みてきた。吐く息は白くならないが、それでも肌を刺す夜気だった。昼間の逃走で汗を吸った服が、今度は体温を奪う側に回っている。濡れたままの服が肌に張り付く感触を、リーゼは何度も意識の外に押しやった。
卵を外套の内側、腹に密着させるように抱え直す。人肌よりも明らかに熱いその重みは、この寒さの中では焚き火の代わりになった。抱いている間は、自分が卵を温めているのか、卵に温められているのか分からなくなる。どちらでも構わなかった。
「寝るなよ」
ヨルグが押し殺した声で言う。
「寝てない」
言い返した直後、視界が一瞬暗転した。まぶたが落ちていたのだと、はっと気づく。夜通しの緊張と空腹が、意識の端をじわじわと侵食していた。遠くで誰かが呼んでいるような気がして顔を上げたが、誰もいない。幻聴だ。頬を叩いて自分を戒める。今、意識を手放すわけにはいかない。腕の中の重みだけが、辛うじて現実を繋ぎとめていた。
星明かりだけを頼りに進む道は、何度も方角を見失いそうになる。岩陰にうずくまって休むたび、ヨルグとの距離が意図せず詰まり、互いの体温を分け合うような格好になった。気まずさを誤魔化すように、リーゼは無意識に震える手を擦り合わせた。梟の声が、やけに近くで響いた。
沈黙が続くのに耐えかねたのか、ヨルグがぽつりと言った。
「明日は晴れそうだな」
「…今、それ?」
「他に話すことないだろ」
腹の虫が情けなく鳴る音に、二人して一瞬だけ黙った。張り詰めた空気に、場違いなほどのんびりとした一言が挟まる。それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
観測ノートを取り出し、リーゼは頁をめくる。
過去の記録の断片――離陸のタイミング、鳴き声の種類ごとの傾向。インクが滲み、雨に濡れた跡の残るページもある。当時は分からなかったことが、今なら分かる気がした。
「よくそんな汚い字読めるな」
横から覗き込んだヨルグが、呆れたように言う。
「読めるように書いてない。自分のための記録だもの」
言い合いながらも、リーゼの指はページを繰り続けた。
森を逃げていた時に感じた、あの違和感が頭から離れない。欠け角の攻撃は、妙に間遠だった。一直線に仕留めようとする様子もなかった。あの時は気のせいだと片付けた。だが、本当にそうだったのか。
具体的な記録を指で辿り、日時と行動パターンを並べていく。闇雲に襲ってこない。特定の時間帯だけ激しくなる。
「単なる偶然だと片付けていいのか」
声に出してみると、違和感の輪郭がわずかに際立った。
月明かりだけを頼りに、観測ノートの複数のページを地面に並べる。文字が読みにくく、リーゼは目を凝らした。指でなぞりながら、崩落の日から今日までの時刻を一つずつ突き合わせていく。
気のせいで片付けていいのか。
その自問が、指先の動きを止めさせなかった。
不意に、腕の中の卵が小さく震えた。反射的に耳を当てる。振動のリズム――どこかで聞いた覚えがある。記憶を辿り、道中で聞いた欠け角の鳴き声の間隔と、指先で同時にリズムを取って確かめてみる。
「これは…」
声が勝手に漏れた。全身に鳥肌が立つ。
「何やってんだ」
ヨルグが怪訝そうに聞いてくる。答える余裕もなく、リーゼは震える手でもう一つ別の記録を引っ張り出した。三つ目、四つ目――同じパターンが、繰り返し現れる。
一度の成功は偶然でありうる。二度目でようやく、法則と呼べる。
ヴォルダーの言葉が、あの夜と同じように頭の中で立ち上がる。もう偶然ではない。無言のまま、リーゼはノートをヨルグに突きつけるように見せた。
なぜ追ってくるのか。ずっとその問いを立てていた。
だが、問いの立て方そのものが間違っていたとしたら。
答えが出ないのは、問いの立て方が間違っているからだ――その一節が、頭の中で引き金を引いた。何を伝えようとしているのか。そう問い直した瞬間、腕の中の卵の振動が、一瞬止まったかのような錯覚に襲われた。
「――違う」
声に出していた。
「奪還じゃない」
ヨルグの視線が突き刺さる。
「…どういうことだ」
震える手で、リーゼは卵の輪郭をなぞった。これまでの「怪物」という見方が、音を立てて崩れていく。欠け角は、卵を取り返そうとしているだけではない。孵化が近いことを察知し、呼びかけているのだ。自分の子に向かって。
考えてみれば、単純なことだった。人間の母親が、産まれる直前の我が子の心音に耳を澄ませるのと、何も変わらない。竜だからといって、その根源にある衝動まで人間と隔絶している道理はなかった。ただ誰も、そんな当たり前の可能性を検証しようとしなかっただけだ。魔法生物だから話が通じるはずはない――そうした思い込みの層を、一枚ずつ剥がしていくような感覚だった。
自分の言葉に、自分で驚いていた。
卵に耳を押し当てる。伝わってくる振動は、もう単なるデータではなかった。指先の震えが、ようやく止まった。リーゼの目つきが変わったことに、ヨルグは気づいたようだったが、何も言わなかった。
静寂を破ったのは、遠くから届く蹄の音だった。
地面に残る蹄鉄の跡を見て、リーゼは眉をひそめる。跡の深さからして、馬に乗った追っ手が複数いる。風に乗って、途切れがちな話し声が届いた。
「――まだ先だ」「夜明けまでには…」
二正面の圧力は、途切れていない。ヨルグは無言のまま、枝で足跡を払い、遠回りをして小川を渡った。声も出さずに、体だけが淡々と動いていた。
月明かりの中、その横顔がいつもより険しく見える。
古い傷跡に、ヨルグが無意識に触れているのに、リーゼは気づいた。何かを言いかけて、口を閉じる。
「…いや、何でもない」
指摘はしなかった。それ以上踏み込む勇気は、今のリーゼにはなかった。
歩きながら、リーゼは自分の考えを整理するように口を開いた。
「返しに行くべきだと思う」
「そんな余裕、どこにある」
「データが揃うのを待ってたら遅い」
「データより先に、おれたちが死ぬ」
ヨルグは苛立たしげに足を止め、リーゼを振り返った。何か言い返しかけて、結局は大きく息を吐くだけにとどめる。二人の間で、卵を挟んで視線がぶつかる。数秒、どちらも譲らなかった。
「そもそも、なんで戻るのがそんなに嫌なの」
勢いで口にしてから、リーゼは我に返った。
「今のは質問じゃなくて独り言」
誤魔化そうとしたが、遅かった。ヨルグの声のトーンが、明らかに変わっていた。
「あんたも竜が怖いの、って聞いたら、どう答える」
投げかけた一言が、意図せず何かに触れたらしい。ヨルグは視線を逸らし、拳を強く握りしめた。
長い沈黙の後、ヨルグはようやく口を開いた。
「――二年前だ」
辺境のとある村の近くで、一頭の子供竜が目撃された。母親とはぐれ、飛ぶこともままならず、地面を這うようにしてうろついているだけの、まだ幼い個体。畑を少し踏み荒らした程度で、それ以上の実害はない。翼はまだ体の大きさに見合わず、飛び立とうとしては何度も転び、そのたびに心細げな鳴き声を上げていた。だが最初に見つけた村人の悲鳴が、すべての始まりになった。竜という言葉だけで、冷静さを保てる者は少ない。
恐慌に駆られた村人たちは、竜討伐部隊の隊舎に押しかけた。長老格の男が、直接怒鳴り込んでくるほどだった。
「殺してくれ」「子供が危ない」
口々にそう訴える村人を、隊はなだめようとした。武器を持ち寄って自分たちで始末しようとする者まで現れ、それを押し留めるだけで精一杯だった。状況を精査する時間など、どこにもなかった。
上官ガレスは、その場でほとんど迷わなかった。
「これ以上の被害を出すわけにはいかない。討て」
「…まだ様子を見るべきでは」
ヨルグは反論しかけた。だが言葉は、喉の奥で止まった。隊の誰も、何も言わなかった。沈黙こそが、命令への同意だった。
「お前の腕が一番だろう」
ガレスに名指しされ、断る理由を、ヨルグは持てなかった。
リーゼは何も挟まず、ただ聞いていた。相槌一つ打てば、この先を止めてしまいそうな気がした。
ヨルグの声が、記憶をなぞるように低く沈んだ。剣を構えた手が震えていたのを、今でも覚えている、と彼は言った。踏み込んだ土の感触、乾いた草の匂い、遠巻きに息を詰める村人たちの視線。子供竜は、攻撃してくるどころか、翼を広げることもできずに、怯えたように後ずさっていた。丸い瞳がこちらを見上げていた。逃げようとしていた。それでも、剣は止まらなかった。
最後の瞬間、子供竜の放った吐息が右の前腕をかすめた。肉の焼ける匂いと熱が同時に襲ったが、声を上げる余裕すらなかった。断末魔ではなく、怯えた鳴き声だけが、辺りに響いて消えた。
討伐が終わった後、あたりは不自然なほど静まり返っていた。誰も、拍手も安堵の声も上げなかった。
後になって、調査の結果が届いた。畑の被害以外、人への加害の記録は一切ない――報告書には、そう淡々と記されていた。
ヨルグは、何も言えなかった。取り返しのつかなさだけが、腹の底に重く沈んだ。誰かを恨むことさえできれば、まだ楽だったのかもしれない。だが恨むべき相手は、あの日剣を振るった自分自身の他にいなかった。調査に当たった別の隊員は、それ以来ヨルグを避けるようになった。誰も、責めはしなかった。誰も、何も言わなかった。それが、余計にこたえた。
隊を去る日、ヨルグは誰にも告げなかった。装備の一部を置き、静かに姿を消した。剣を鞘に収めるとき、その重さが、以前とはまるで違って感じられた。
「今度は、間違えたくない」
低く、押し殺した声だった。
リーゼは何も言わなかった。言葉を挟める空気ではなかった。それでも、ヨルグの視線が卵に向けられたとき、そこにあったのは以前とは違う何かだった。
「その理論とやら」
ヨルグが、ぽつりと呟く。
「今回は、信じてやる」
理論を頭ごなしに否定していた態度が、静かに軟化していた。
「利害の一致だけじゃ、なくなったってこと?」
「さあな」
はぐらかす口調に、以前のような刺々しさはなかった。二人は短く頷き合う。握手はしなかったが、それで十分だった。卵を挟んで、どちらからともなく同じ方向――谷の方角――に目を向ける。言葉にしなくても、共通の目的ができていた。
その静けさを破ったのは、はっきりと聞き取れるようになった話し声だった。
「――こっちだ、匂いが残ってる」
声の内容まで拾えるほど、追っ手が近づいていた。緊張が一気に高まる。馬の嘶きが、もうすぐそこで響いた。松明の炎が放つ匂いさえ、風に乗って届く気がした。
「もう時間がない」
ヨルグが短く告げ、二人は再び走り出した。
尾根を越えた先で、リーゼは息を呑んだ。
進路の先に、無数の灯りが並んでいた。橙色の点が、稜線に沿ってどこまでも連なっている。数えようとして、あまりの多さに諦めた。さっき見た松明の列とは、もはや比べ物にならない規模だった。
隣に立つヨルグの息遣いが、わずかに速くなるのが分かった。それでも、その手は卵を抱えるリーゼの肩からそっと離れることはなかった。
退路は、すでに断たれかけていた。
#
涸れ湖への道
前方の灯りに、いつの間にか背後からの松明の列まで重なっていた。左右は切り立った岩壁。逃げ道を探して視線を巡らせたが、どこにも隙間がない。高地特有の強い風が吹きつけ、巻き上げられた砂埃が目に染みた。
岩陰から覗く人影は、絶望的なまでに多かった。
「囲まれたか」
ヨルグが低く呟く。地形を見渡し逃げ道を計算しようとしていたリーゼの指先も、力なく止まった。すべての道が、塞がれている。
前方の一団が、ゆっくりと近づいてきた。統率された足音が、地面を規則正しく揺らす。先頭に立つ男が、片手を軽く上げた。それだけで、隊列全体の動きが止まる。
白髪の交じった口髭。頬に刻まれた古い傷跡。低く、それでいてよく通る声だった。
「…ヨルグか」
隣で、ヨルグの体がわずかに強張るのが分かった。ただの追っ手ではない。リーゼは直感的にそう悟った。
「久しいな。それが、竜討伐部隊の隊長――ガレス」
ヨルグが硬い声で紹介する。ガレスの正装には、竜騎士としての紋章が縫い付けられていた。整然と並ぶ部隊、風に翻る隊旗。数にして二十はいるだろうか、陣形を崩さず、隙のない構えを保っている。
「禁忌を犯した者の拘束、暴走した竜の討伐。竜騎士としての任務だ」
ガレスの声には、迷いがなかった。部隊の中には、ヨルグを見つめる複雑な表情の者も混じっている。かつての戦友だったのだろう。
ヨルグとガレスは、しばらく無言で向き合っていた。懐かしさと緊張が同時に走るような、奇妙な間だった。ガレスの胸元の部隊記章と、ヨルグの上着に残る古い意匠が、どこか呼応して見えた。
「お前がこんな連中と一緒にいるとはな」
ガレスが、部隊を気遣うような視線を寄越しながら言う。
「戻ってこい」
「今さら、そんな話をしに来たのか」
「…今でも気にしてるのか、あれを」
ガレスの声が、わずかに低くなった。ヨルグの表情が、一瞬だけ硬くなる。
「お前は間違っていなかった。命令に従っただけだ」
「間違っていた」
ヨルグが、遮るように言った。
「それを認めないあんたらが、今も間違え続けてる」
ガレスの表情から、情らしきものが消えていく。職務の顔に、静かに戻っていった。ヨルグは武器を構えなかった。それでも、体一つでガレスの前に立ちはだかる姿勢を崩さなかった。
交渉の余地がないことは、もう双方に分かっていた。
リーゼは、それでも一歩前に出た。
うまく力の入らない手で観測ノートを取り出そうとしたが、掴めない。声だけは、震えなかった。
「聞いてください。この竜は――暴走していません。呼びかけているんです」
部隊の視線が、一斉にリーゼへ向いた。ガレスが片眉を上げる。構わず、続けた。
「わたしは半年間、あの谷でこの個体を観測してきました。目的は、竜の飛行と吐息の謎を解くこと。魔法生物だから当然――そう片付けられてきたこの竜たちの力に、本当は物理の法則があるはずだと信じて。誰も検証しようとしなかった、その一点だけを見てきました」
「その間、この個体が実際に獲物を仕留める瞬間を、三十七回記録しています。狩りの成功率は九割を超え、距離を詰めてから仕留めるまで、平均でおよそ四つ数える程度の時間しかかかりません」
喉が渇いて、声がかすれる。部隊の誰かが弓の弦を鳴らす音が、風に混じって届いた。それでも構わず、続けた。
「まっすぐに距離を詰め、無駄な動きをせず、相手に逃げる隙を与えない。それが、わたしが記録してきた、この竜の本来の狩りの動きです」
「だが、わたしたちを追ってきたここまでの追跡は、違いました。十三回の接近のうち、実際に仕留めにかかるところまで踏み込んだのは、たったの二回。残りは、狙いを外すように途中で止まっている」
部隊の何人かが、ちらりと顔を見合わせた。その反応を見逃さず、リーゼは畳みかけた。
「攻撃の間隔も、本来の狩りの三倍近く空いていました。本気で仕留める気があるなら、とうにわたしたちは死んでいます。これは、本物の攻撃ではありません」
「そして、これです」
リーゼは、外套の中から卵を掲げた。
どよめきが走った。部隊の何人かが、弾かれたように武器を構え直す。ガレスの目が、初めて大きく見開かれた。禁忌の対象そのものを、まさか掲げて見せてくるとは思っていなかったのだろう。
「――それを、ずっと」
絶句したガレスの声に、リーゼは構わず続けた。
「この卵は、もうすぐ孵ります。夜明け前に測り直した数字では、もってあと数刻。振動のリズムと、あの竜の鳴き声のリズム――独立に四回測って、誤差はどれも一割に収まっている。一度なら偶然かもしれない。でも、四回続けてこれほど揃うことは、偶然では起こり得ません」
「母親が、産まれる直前の我が子に呼びかけている。それだけです。竜だから理解できない、なんてことはない。人間の母親と、何も変わらない」
部隊の誰も、表情を変えなかった。信仰という壁の厚さを、リーゼは初めて肌で感じた。それでも、続けずにはいられなかった。
「今、この場で竜を討てば、この子は独りで孵ることになります。人間しかいない場所で。それが、本当に竜脈教の教えに適うことですか。母が子を求める気持ちを、あなたたちの信仰は否定するんですか」
沈黙が落ちた。
ガレスが、静かに口を開いた。
「学者の戯言に付き合っている暇はない」
切り捨てられた言葉に、リーゼの喉の奥が締め付けられる。それでも、胸の内だけで唱えた。
理論は祈りではない。祈りは結果を保証しないが、理論は再現する。
屈するつもりはなかった。
ガレスが、部隊に向けて短く手を上げた。武器を構える音が、一斉に響く。緊迫が、目に見えて膨れ上がった。
弓に矢がつがえられる乾いた音に、リーゼは思わず息を呑んだ。反射的に体をひねり、卵と矢の間に自分の背中を割り込ませる。
「本当に竜は暴走してるのか…」
自警団の列の中から、小さなつぶやきが漏れた。声のした方を見ると、見覚えのある顔があった。オルバ村の井戸端で、値踏みするような目を向けてきた女性だ。隊列がわずかに乱れる。全員が同じ確信を持っているわけではないらしい。
その隙を突いて、リーゼはヨルグの陰に身を寄せた。岩の出っ張りが、わずかな盾になる。
そのとき、遠くで地鳴りのような音が響いた。鳥の群れが一斉に飛び立つ。
低い咆哮とともに、欠け角が姿を現した。
群衆が悲鳴を上げ、隊列が崩れる。武器を構え直す音があちこちで鳴り響いた。リーゼは咄嗟にしゃがみ込み、外套できつく卵を包み直す。恐慌状態の人混みに押し潰されないよう、体を丸めて卵を守った。
「討て」
ガレスの号令が、混乱の中に響いた。ヨルグの語った回想の中で聞いたのと、同じ言葉だった。部隊が一斉に武器を構える。
ヨルグが動いた。
両手を広げ、欠け角とガレスの間に割って入る。部隊が一瞬、狙いを定めかねて怯んだ。
「今度は退かない」
ヨルグの声は、低く、揺るぎなかった。
「あの時、退かなかったみたいに」
過去の自分への皮肉を込めた一言に、ガレスが息を呑む。号令を続けられず、一瞬だけ固まった。部隊の視線が、ガレスとヨルグの間を行き来する。
リーゼは戦えない。後退しながら、ただ卵を守ることに専念した。抱えた卵が、いつもよりさらに熱く、激しく脈打っている。
(こんな時に孵ったら)
新たな焦りが、胸の中で膨らんだ。緊張の極限で、音が遠くなる。時間が引き伸ばされるような感覚に襲われながらも、卵を抱く腕の力だけは、決して緩めなかった。指先に走る痛みさえ、どこか他人事のように感じられた。痛いはずだ、という判断だけが、遅れて浮かぶ。
「行くぞ」
ヨルグが背後で叫んだ。ガレスが一瞬、手を止めている隙を突き、二人は岩と乾いた沢の間を縫うように駆け出した。卵を抱えた腕を離せないせいで、とっさに手をつくこともできず、リーゼは何度も転びそうになる。そのたびに、ヨルグの腕が体を支えた。
背後から怒声が響いたが、振り返る余裕はなかった。ただ前へ。
やがて、地形が変わった。
砂交じりの土が、ひび割れた白い大地に変わっていく。乾いた地面が、歩くたびに小さく音を立てて砕けた。風がぴたりと止み、異様な静けさが辺りを包む。視界の先に、涸れ湖の跡地が広がっていた。
あまりの静けさに、リーゼはかえって不安を煽られた。何かが終わる場所――そんな予感が、拭えなかった。
息を切らしながら、ようやく足を緩めたとき、頭上に影が差した。
見上げると、白み始めた空を背にした欠け角のシルエットが、涸れ湖の上空に浮かんでいた。夜通し歩き通し、いつの間にか夜が明けかけていたことに、今さらながら気づく。
「ここが、最後の場所になるかもしれない」
そんな直感が、胸をよぎる。
背後からは、迫る足音。橙色の松明が、稜線の向こうから再びこちらへ近づいてきていた。
竜と、人間。二つの脅威が、この乾いた大地の上で、ついに同時に交わろうとしていた。
#
涸れ湖
朝焼けの光が地平線を這うように広がる中、視界が開けた瞬間、リーゼは思わず足を止めた。
涸れ湖の跡地は、乾いた大地が見渡す限り続いているように見えた。ひび割れた地面が網目状に走り、踏むたびに乾いた泥が小さく砕けて崩れる。白く干からびた水草や、魚の骨らしき欠片が点々と散らばっていた。谷にいる間も森を抜ける間も、常にまとわりついていた風の気配が、ここにはまったくない。死んだように静まり返った空気の中、自分の足音だけが妙にくっきりと響いた。
(この場所でなら――)
隣でヨルグが短く息を呑む気配がした。逃げ場のない、あまりに開けた地形。だがリーゼの頭の中では、別の考えが同時に立ち上がっていた。竜が自由に飛び回れないこの場所こそ、卵を返す最後の好機になるかもしれない。
頭上で羽音が重く響いた。振り仰ぐと、欠け角が急降下してくるところだった。開けた地形でも速さと迫力は谷で見たときと変わらない。だが翼の動きに、いつもとは違う粗さがあった。羽ばたきが途切れず、休みなく続いている。谷では滑空だけで高度を保てた個体が、ここでは絶え間なく翼を打ち続けなければ体を支えられずにいるらしい。
「来るぞ」
ヨルグの声に弾かれるように、二人は左右に分かれて転がった。爪が地面を抉り、乾いた土が高く舞い上がる。リーゼは卵を体で庇いながら距離を詰めようとしたが、次々と繰り出される攻撃をかわすだけで精一杯で、足を踏み出す隙すら見つからなかった。一歩でも前へ出ようとするたび、影が頭上を覆う。
一度、爪の先が頬をかすめた。熱い痛みより先に、乾いた土の匂いが鼻を突く。転がるようにして距離を取ると、たった今まで自分が立っていた場所に、深い抉れが刻まれていた。耳の奥で、鼓動が痛いほど響いていた。卵を抱える腕の力だけは緩めなかった。
砂埃の中で息を整えながら、リーゼは頭の中で数字を並べ始めた。
「――何度目かの旋回でも、必ず速度が落ちてる」
声に出すと、自分の言葉の輪郭がはっきりした。谷での観測どおりなら、この個体の飛行は上昇気流への依存度が高い。開けたこの場所では羽ばたきだけで揚力を稼がなければならず、消費する体力はこれまでの比ではないはずだった。谷があれほど強く上昇気流を生む地形だからこそ、飛べるようになったばかりの幼竜はそこでなければ十分に飛ぶ術を学べないのだろう。信仰が谷を禁足地としてきたのも、本当はそういう物理的な理由からなのかもしれない――今なら、そう思えた。
『動くものは、なぜ動くか』の一節が、勝手に頭の中で立ち上がる。エネルギーはどこにも消えない。使った分だけ、必ず形を変えて外に現れる。荒い息づかい、鈍くなっていく羽ばたきの間隔――それは目に見えない消耗が、目に見える形で外側に滲み出ているだけのことだった。
足元の乾いた土を軽く蹴り、舞い上がる埃の流れを目で追う。風はほとんど動いていない。それでも竜の羽ばたきが巻き起こす気流の乱れだけは、はっきりと読み取れた。
「これなら」
恐怖より先に確信が浮かんだことに、リーゼは自分でも驚いていた。この分析は、ただ生き延びるためだけのものではない。卵を返す隙を作るための観測だと、はっきり自覚していた。
欠け角が旋回の頂点で動きを止めた。首をぐいと反らせ、顎を天に向ける。喉の奥に赤い光が滲み始めた。
「来る、伏せろ」
ヨルグの声と同時に、リーゼは地面に身を投げた。吐息の熱と衝撃から卵を守るため、とっさに体を丸めて抱え込む。頭上を熱の奔流が通り過ぎていく。焦げた土の匂いが鼻を刺した。
吐き終えた直後、竜の動きが目に見えて鈍くなる。羽ばたきの勢いが落ち、体がわずかに沈み込むのが見えた。熱気が引いていく数秒間、心拍を数えながら、リーゼは無防備な間隙の長さを計った。一つ、二つ、三つ――およそ八つ数える間だけ、竜は次の一撃を放てない。
その隙に、思わず一歩、足が前へ出かけた。だが距離はまだ遠すぎる。踏み出した足が、すぐにまた止まる。勇気が足りないのか、それとも計算がまだ足りないのか、自分でも分からなかった。
地鳴りのような足音が、涸れ湖の縁から近づいてきた。
顔を上げると、稜線の向こうから部隊が一斉になだれ込んでくるところだった。先頭に立つのはガレスだった。
「矢を番えろ」
短い号令に、部隊が横に展開する足音が重なる。夜通し全力で追ってきたのだろう、隊列の息づかいは乱れ、肩を上下させる者が何人もいた。
ヨルグが咄嗟にリーゼを背に庇う。反射的な動きだった。
ガレスの視線が、竜と、卵を抱えたリーゼの間を行き来した。状況をどう飲み込めばいいのか分からないというように、一瞬だけ動きが止まる。
部隊の中に、動揺が広がっていく。竜をこれほど間近で見た者などほとんどいないのだろう、恐怖とも畏怖ともつかないどよめきが列の中を走った。
若い見習いらしい隊士が、武器を構えたまま動けずにいる。竜は畏敬の対象でもあると教えられて育った者にとって、目の前の光景は討伐の正当性そのものを揺らがせるものらしかった。年配の自警団員の一人は、武器を構える代わりに、小さく祈りの言葉を口の中で唱えていた。
「これは偽りの姿だ、惑わされるな」
別の一人が叫んだ。熱心な信徒なのだろう、その声にはむしろ硬さが増していた。
「魔法による幻惑じゃないのか。卵とやらも、幻術で見せられているだけかもしれん」
囁きが、隊列の端から端へと伝わっていく。
「目に見えるものを、簡単に信じるな」
誰かが騎士の心得めいた言葉を口にした。竜は魔法の生き物だという通念が、彼らの目を曇らせているらしい。だが、光る魔法陣も、詠唱の気配も、浮遊する何かも、この場にはどこにもなかった。むしろその不在にこそ、戸惑う者がいる。
隊列が乱れたまま、じりじりと間合いを詰めてきた。
ヨルグがリーゼの前に一歩踏み出した。低く息を吐き、迷いのない足取りだった。それから、いつもの調子を取り戻すように、軽く続けた。
「おれが少し相手をしてやるよ」
飄々とした口調とは裏腹に、両手を大きく広げて道を塞ぐ動きに迷いはない。立った位置は、右の前腕の火傷痕がガレスの目にちょうど入る角度だった。何も言わずとも、それだけで十分な説明になる。
部隊の中に、また動揺が走った。武器を下げかける者が何人か現れる。
ガレスが号令を出しかけ、言葉が途中で止まった。
そのとき、涸れ湖の奥で欠け角が再び首を反らせた。喉の奥に赤い光が満ちていく。
「伏せろ」
ヨルグの叫びで、部隊が一斉に地へ伏せる。熱の奔流が頭上を薙ぎ払い、灼けた大気が肌を刺した。
また、あの数秒が来る。竜の体が、わずかに沈み込んだ。消耗が重なるほど、隙は長くなる――さっきより深く沈んだ体が、そのことを裏付けていた。
リーゼは動き出していた。ヨルグが止めようとするのを、手振りだけで制する。覚束ない手で卵を抱え直し、涸れ湖の中心へ向けて足を踏み出した。
足がすくむのを、意志の力だけで押し出す。正しい観測には、正しい距離がいる。近すぎても、遠すぎても、対象を見誤る――ヴォルダーの一節を支えに、一歩、また一歩。
歩きながら、いつもの癖で自分の恐怖を分析せずにいられなかった。
(これは恐怖か、それとも単に――)
心拍を数え、その数を歩数のリズムに変える。数えている間だけ、足は止まらずに動いた。
不意に、手足の震えが強くなった。卵を落としそうになり、とっさに両腕で抱え直す。その瞬間だけ、卵の熱が生々しく手のひらに伝わった。
母竜の巨躯が、目の前まで迫っていた。一歩ずつ距離を測りながら、それでも足を止めない。威圧感で押し潰されそうになりながら、最後の数歩を刻む。
両手で卵を掲げた。震える両腕を、伸ばしきる。
母竜の視線が、卵に落ちた。
すべての動きが、そこで止まった。
欠け角の首が、ゆっくりと下がってくる。噛みつかれる、と身構えた瞬間、リーゼは違和感に気づいた。
頭が、二度、三度と小さく上下した。獲物に襲いかかるときの動きなら、もっと鋭く、もっと速いはずだ。これは違う。
耳に届く鳴き声も違った。威嚇のときよりも一段低く、くぐもっている。離陸の前は必ず三歩助走する個体のはずなのに、今は足を踏み出さず、その場で羽ばたいているだけだ。半年見てきたどの行動パターンからも外れている――それ自体が、威嚇ではないという何よりの証拠だった。
大きな瞳の奥、瞳孔が丸く開いているのが見えた。獲物を狙うときの、あの細く鋭い光はそこにない。
手のひらの中で、卵がかすかに震えた。
指先に伝わる感触が、これまでの衝撃とは違うことに、リーゼは気づいた。外から加わる力ではなく、内側から外へ向かう振動――卵の殻に、亀裂が入り始めていた。
ずっと、割れないように守ってきたはずだった。それなのに今、目の前で殻は内側から割れていこうとしている。守ってきた努力が、急に意味を失うような、奇妙な感覚に襲われた。
考えてみれば当たり前のことだった。殻しか見えていなかったから、自分は殻そのものを守っていると錯覚していた。だが本当は、殻自体が中の命を守るためのものだった。守っていたのは、自分ではない。
反射的に、亀裂を庇おうと手が動きかけた。だがすぐに、理性がその手を止めた。壊れているのに、庇ってはいけない。
低い唸り声が、少しずつ質を変えていった。唸りから、鼻を鳴らすような音へ。やがてそれも、ほとんど聞こえないほどの喉の震えに変わっていく。
欠け角が首を伸ばし、卵に鼻先を近づけた。鼻息で近くの砂が舞い上がる。大きく広げられていた翼が、ゆっくりと畳まれていく。攻撃態勢の展開翼から、休息のときの畳んだ翼へ。その変化だけで、すべての緊張が緩んでいくのが分かった。
背後で、誰かが小さく息を呑む音がした。
ガレスや部隊の面々が、目の前の光景に武器を下ろし始めていた。オルバ村で見かけた自警団の女性が、真っ先に武器を下ろす。だが全員が同時にではなかった。まだ信じきれないのか、武器を構えたまま動かない者もいる。涙ぐんで立ち尽くす者もいた。武器を下ろす速さには、目に見えるばらつきがあった。
「――待て」
ガレスが片手を上げ、短く伝える。号令に、部隊がなんとか従った。
遠くで見ていた村人たちのざわめきも、悲鳴から囁きへと質を変えていく。
「竜が魔法を人に教えたという伝承は、本当だったのかもな」
誰かが小さく呟く声が聞こえた。
隊列の中でくすぶっていた信仰をめぐる小さな言い争いも、やがて立ち消えていった。それでも一人だけ、武器を下ろさない若い隊士がいた。血の気の引いた顔で、拳を強く握りしめている。何かに耐えているのか、それとも何かを諦めきれずにいるのか、リーゼには読み取れない表情だった。
分裂しかけた部隊の空気を、ガレスは号令の声だけで必死に押しとどめようとしていた。指揮官としての苦しさが、その横顔ににじんでいるように見えた。信仰とは無縁に、ただ目の前の状況だけを見て動くヨルグたちとの間には、明らかな濃淡があった。
それでも、全体としての流れは変わらなかった。矢はもう、誰にも番えられていない。
風のない涸れ湖の上に、いつしか朝日が完全にのぼりきっていた。乾いた大地を照らす光の中で、武器を下ろした人々と、身を寄せ合う竜の親子が、同じ静けさの中に収まっていた。
孵化の気配に沸き立つ隊列から少し離れた場所で、ヨルグとガレスが向き合っていた。武器を下ろした部隊の視線が、自然と二人に集まる。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
ガレスが、先に沈黙を破った。
「…お前の言う通りだったのかもな」
これまでの正論めいた口調から、一歩引いた声だった。謝罪ではない。それでも、認める響きがあった。
「今さら、それを聞いてどうする」
ヨルグの返しは、突き放すようでいて、以前のような棘はなかった。
ガレスはしばらく、ヨルグの顔を見つめていた。それから部隊に向き直り、短く号令をかけた。
「――退くぞ」
武器を収め、列を崩していく部隊の動きに、迷いはもう見えなかった。
最後に一度、ガレスとヨルグは短く頷き合った。それだけだった。背を向けて歩き出すガレスの後ろ姿を、ヨルグはしばらく見送っていた。
孵化した子竜は、殻の欠片の中で小さく鳴いていた。頼りない、それでいてはっきりとした声だった。欠け角が身を屈め、鼻先で子をそっと押すように促す。
その光景を少し離れた場所から見つめながら、リーゼは自分の掌に、まだ卵の熱の名残が残っているのを感じていた。
(あの日も、こうして竜を見ていた)
崖の縁で欠け角を観測していた、あの朝を思い出す。あのときはただの観測対象だった。今は、違う。
腰の袋から観測ノートを取り出す。最後のページに、日付とひとことだけを書き加えた。
祈りは結果を保証しない。理論は、再現する――あの日、自分に言い聞かせたその一節を、今このときほどはっきりと感じたことはなかった。祈りではなく理論を選んだ自分を、初めて肯定できる気がした。ヴォルダーの本を、リーゼは強く握り直した。
隣に立つヨルグへ、リーゼは自分から声をかけた。
「――ヨルグ」
名前を呼ぶのは、これが初めてだった。ヨルグは驚いたように振り返り、それから、ばつが悪そうに笑った。
陽の光が白い地面を染める中、二人は涸れ湖を後にした。
「これからどこに行くんだ」
ヨルグが何気なく聞いた。
「まだ決めてない」
リーゼは素直に答えた。決めていないことが、不安よりも、むしろ心地よかった。
観測ノートに、新しい一行を書き加える。歩きながら、卵ではなくなった何かの鳴き声が、遠くでか細く響くのが聞こえた。
物理学という、まだ誰にも認められていない学問を、これからも一人で追い続ける。それでも、もう完全な一人ではないのかもしれない。
振り返ると、涸れ湖の向こうで欠け角が子を庇うように身を丸めているのが見えた。半年間、崖の縁から見つめ続けた同じ姿だった。ただ今は、観測対象としてではなく、ただそこにいるものとして、リーゼの目に映った。
二人は、乾いた大地に足音を残しながら、静かに歩き出した。
#
その後
窓の外の木々が、いつの間にか赤く色づいていた。
初夏だったはずのあの一件から、もう数ヶ月が経っている。涸れ湖を出てすぐ、リーゼとヨルグは自然と別々の道を選んだ。どちらが言い出したわけでもない、ただの成り行きだった。
仮住まいの作業場の壁は、以前よりもさらに増えた観測ノートで埋まっていた。実験台の隅には、乾いて軽くなった卵の殻の欠片が、文鎮代わりに置かれている。
光にかざすと、殻の断面がわずかに層を成しているのが分かった。薄い膜のような層が、幾重にも重なっている。指先でその断面をそっとなぞりながら、リーゼは記憶をたどった。
(今にして思えば、あの凍える夜も、卵の温かさだけは外気に左右されず一定だったのかもしれない)
寒さの中で焚き火の代わりになったのは、竜の熱がただ強かったからではなく、外の冷たさが中の熱を奪えなかったからだ。涸れ湖であの竜に向き合ったときと同じ、あの一節が、また頭の中で立ち上がる。エネルギーは、どこにも消えはしない。使った分だけ、必ずどこかに形を変えて現れる――ならば、外へ逃げようとする熱を、あえて逃がさない構造もありうるはずだった。
ペンを取り、層と層の間に薄い空気の隙間を作るスケッチを、ノートの余白に描き足した。
魔法の細工師には頼らなかった。あえて選んだのは、ガラスを吹く職人と、金属を打つ職人だった。魔法に頼らず物理法則で証明する、というこだわりを、こんなところでまで通す自分に、リーゼは思わず頬を緩めた。
試作は、何度も失敗した。内と外の層がわずかにずれて、焼いている途中で割れる。隙間が保てず、熱がするりと逃げていく。それでも、失敗のたびに何が悪かったのかは、はっきりと分かった。分かるということが、これほど心強いとは思わなかった。
ある朝、ようやく満足のいく一つが出来上がった。
湯を注ぎ、蓋を閉める。夕方になって開けてみると、まだ湯気が立った。
声にならない声が漏れた。両手で包み込むように容器を持ち、しばらくその場から動けなかった。
近所の老婆に見せたとき、驚かれた。
「魔法を使ってないのに、まるで魔法みたいだね」
誰かがふざけて「魔法瓶」と呼び始め、それがそのまま定着した。魔法を一切使っていないその名前の皮肉さに、リーゼは今でも時々笑ってしまう。
行商人が各地へ売り歩くようになり、噂は思いのほか早く広がった。竜脈教の一部からは、竜の聖性を実用品に貶めるものだと眉をひそめる声も上がったらしい。大学では、相変わらず「物理学」という学問そのものが正式には認められていない。それでも、実物を手にした人々の反応までは、誰にも止められなかった。そのたびに、リーゼは苦笑まじりに小さく肩をすくめるだけだった。
ヨルグからは、思い出したように短い手紙が届く。飾り気のない文面で、近況を深く尋ねることもない。それでも文末には、決まって短い一言が添えてある。名前だけのときもあれば、「また今度」とだけ書いてあるときもある。繋がりそのものは、細くても切れていなかった。
谷の近くを通った旅人から、風の噂を聞いたことがある。子竜が元気に空を飛んでいるのを見た、と。それだけだった。もう自分は、あの谷の観測者ではない。ただの又聞きで十分だった。
夜、机に向かいながら、リーゼは擦り切れた『動くものは、なぜ動くか』の背表紙をそっと撫でた。
あの日、「もう完全な一人ではないのかもしれない」と思った。この学問は、今もまだ誰にも認められていない。それでも今は、それがささやかな一つの跡になって、確かに世界に残っている。
新しく淹れた湯を、あの容器に注ぐ。立ちのぼる湯気を見つめながら、リーゼはペンを取った。
観測ノートの新しいページに、今日の日付を書き込む。