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影衣を脱ぐ夜

 市は夕暮れの色に沈みかけていた。西日が瓦を赤く濡らし、店先に並ぶ反物や飴細工が、その斜めの光を吸って、燃えるように色づいている。環は死んだ叔母の形見の紅染めの帯を締め直し、人混みへ滑り込んだ。すれ違う女たちの視線が、赤い帯を追っていく。その視線がほしくて、今日もこれを選んだ。灯ともし頃の橙が、緋色をいっそう際立たせる。誰かが「あら、きれいな帯」と囁くたび、環の胸に、ほんの束の間、灯りがともる。

「その色、あなたのものじゃない」

 染物屋の軒先から声が飛んできた。紬だ。藍に染まった手を前掛けで拭きながら、まっすぐこちらを見ている。店の奥からは、藍甕の()えたような匂いと、干し布のかすかな湯気が流れてくる。その匂いは、環には幼い日の匂いだった。

「出た、紬の説教」環は帯を撫で、わざと軽く笑ってみせた。「いいでしょ、これ。今日の市でいちばん目立ってるって、さっき豆腐屋のおかみさんに言われたんだから」

「似合うとか目立つとか、そういう話じゃないの」紬は手を止めなかった。「あなたね、生まれてから一度も、自分の色をちゃんと見たことがないでしょう。他人の色は瞬きひとつで読むくせに、自分のことになると、いつも目をつぶって走り抜ける。わたしはそれを、この軒先から、ずっと見てる」

 環の笑みは崩れなかった。ただ、指先が帯の結び目を、そっと握りしめていた。

 ――他人の色なら、視える。市を歩けば、漬物売りの燻んだ橙も、恋する娘のこぼれるような桃色も、喧嘩帰りの男のくすんだ朱も、みな見える。ただ自分の色だけが、いつも灰の(もや)に隠れて視えない。

「わたしの色はね、紬」環は声を落とし、視線を石畳へ落とした。「見えないんじゃないの。見たくないの。剝いだ先に、何もなかったら――そう思うと、怖くて、指が動かない」

 紬は何か言いかけて、口をつぐんだ。その沈黙が、どんな言葉よりも重かった。

 翌朝、祖母の棗が環を色読みの座敷へ呼んだ。畳に村の女が一人、手をついて座っている。障子越しの朝の光が、女の丸めた背を、白くぼんやりと照らしていた。線香の細い煙が、まっすぐ天井へ昇っていく。

「読んでごらん」棗は言った。

 環は女の色を視た。表向きは穏やかな鶸色(ひわいろ)。だが奥に、淀んだ紫がわだかまっている。夫に隠しごとを抱えた者の、後ろめたさの色だ。環はそれを、言わなかった。

「……澄んだ空色です。案じることは、何も」

 女は深く胸を撫でおろし、幾度も礼をして去った。障子が閉まり、二人きりになると、棗はずいぶん長いこと、環を見ていた。

「お前は今、視えたものを言わなかったね」

「見間違えました」

「色視の巫女が、色を見間違えるかい」棗の声は、責めるより、ただ寂しげだった。皺の刻まれた指が、膝の上でゆっくり組まれる。「わたしはお前を叱っているんじゃない。逃げるなと言っているんだよ、環。人の色に嘘をつくのは、いつか自分の色に嘘をつくことになる。逃げた先に、お前が探しているものは、ひとつもないんだから」

 その晩、隣町から噂が渡ってきた。色喰いが出た、と。偽りの色を纏う者の魂を、衣ごと喰らう妖怪だという。環の背に、氷の指が這った。偽りの色――それは、わたしのことではないか。

 環は夜更けの蔵へ忍び込んだ。黴と古い糊の匂いが澱む暗がりで、手燭(てしょく)の頼りない灯りを頼りに、一族が禁色として封じてきた古い反物を探し当てる。指に触れた布は、ひやりと重く、生き物の皮膚のようだった。触れてはならぬと言われたその布を、環は灰色を覆い隠す、最後の鎧にしようとした。

「みっともないね」

 振り返ると、蕗が腕を組んで戸口に立っていた。手燭の炎が、その頬に濃い影を落としている。

「自分の色ひとつ持てないものだから、こうして人の色を盗んで着る。禁色まで持ち出して。――ねえ、環。あなた、自分が空っぽだって、本当は誰よりよく知ってるんでしょう。だから重ねる。一枚じゃ足りない、二枚でも足りない。永遠に足りないのよ、その着方じゃ」

「継ぐのは、蕗でいい」環は反物を抱えたまま、俯いた。

「そう言うと思った」蕗は吐き捨てて、背を向けた。その背中が、思いのほか強く、戸を閉めた。乾いた音が、蔵の闇に長く尾を引いた。

 祭りの夜が来た。禁色の反物を纏い、環は灯りの下を歩く。太鼓が腹の底に響き、焼ける団子の甘い匂いが流れ、赤提灯が夜風に揺れる。人々の頬が、火の色に染まっている。その華やぎの真ん中で、ふいに、空気が凍った。

 娘が一人、ふわりと宙に浮いた。派手な衣から、色がするすると抜けていく。緋も金も、水を吸う紙のように失せていき、娘の体そのものが、灰の彫像のように白茶けていく。形のない闇。色喰いだった。それが娘を喰い終え、ぬらりと、環の方を向いた。視線のない視線が、環の纏う禁色を、舐めるように這う。

 環は走った。人にぶつかり、転び、また走る。提灯が倒れ、悲鳴が上がる。木の枝が禁色の反物を裂いた。その下から、染めていない灰色の下地がのぞく。色喰いの気配が、その灰色を、たしかに「視た」。狙いが自分に据えられたのを、環は肌で知った。

 環は町を捨て、山の染め蔵へ逃げ込んだ。

 暗がりで、環は祖母の若い日の日記を見つけた。虫の食った表紙をめくる指が、途中で凍りつく。頁の隅に、若い、けれど確かに見覚えのある筆跡があった。

 『わたしの色は灰色だ。空っぽの、誰にも見せられぬ、みじめな灰色だ』

 まぎれもない棗の字だった。あの、背筋の伸びた祖母が、かつて自分の色を灰と呼び、恐れていた。環の胸の奥で、長年凝り固まっていた思い込みが、初めて、みしりと音を立ててひび割れた。

 夜明け前、紬が蔵を訪ねてきた。手には、正藍を張った小甕を提げている。夜露に濡れた前髪が、頬に張りついていた。

「下地染めをしよう」紬は迷いなく言った。「正藍だけで、いちど全部洗い流す試し染め。重ねた色をぜんぶ剝いだ、あなたの本当の下地が何色か、この目で見る」

「本当の色なんて、ないの」環は突き放した。「あるのは灰色だけ。見たって、あなたががっかりするだけよ」

「わたしは、知ってる」紬は声を荒げなかった。甕を静かに床へ置く。「小さい頃からずっと、あなたの借り物の色の下を見てきた。あなたが新しい帯を巻くたび、わたしは、その下で泣いてる顔を見てた。何も言えずに見送るしかなかった。――でも今日は、見送らない。あなたが逃げても、わたしは追いかける。何度でも」

 環は言葉をなくした。自分の逃避が、この幼馴染を、こんなにも長く、静かに傷つけてきたのだ。

「……やる」やっと、そう頷いた。

 そこへ蕗が現れた。夜明けの薄明かりが、その顔を青く照らす。「明日までに決めなさい。あなたが継がないなら、私が継ぐ。これが、最後の猶予」

 言い終わらぬうちに、闇が渦を巻いた。色喰いが、また来た。環は逃げる。逃げながら、気づいた。色喰いは、纏った偽りの色の匂いを追っている。裂けた下地の灰には、触れようともしない――本物には、手が出せないのだ。

 蔵に戻ると、棗が倒れていた。腕に、灰の痣が、蔦のように広がっている。

「わたしもね」棗は苦しい息の下で、かすかに笑った。「長いこと、偽りの色に隠れて生きた。娘を亡くしてから、なおのことね。だからお前の気持ちは、骨の髄まで分かるんだよ」冷えた手が、環の手を握る。その力は驚くほど弱かった。「――だがね、環。もう、時間がない。次に喰われるのは、お前だ。分かっているだろう」

 それでも環は、決められなかった。禁色の反物と正藍を混ぜ、妥協の色を染めて、色喰いへ向かおうとした。灰と紅の混じった、濁った色。だが色喰いは、その半端な色を、ひと目で見破った。闇が牙を剝く。

「危ない!」

 紬が環を突き飛ばした。代わりに、紬の肩を闇が掠める。白い肌に、灰の痣が、じわりと滲んだ。紬は膝をつきながらも、環の腕を離さなかった。

 環は崩れ落ちた。中途半端が、また人を傷つけた。もう、逃げ込む衣は、どこにもない。

 環は染め井戸の前に立った。井戸の底から、冷たい水の匂いが立ちのぼる。

 禁色の反物を、脱いだ。叔母の紅染めの帯を、解いた。市で買い集めた藍も、金襴(きんらん)の小物も、一枚、また一枚と、脱ぎ捨てていく。夜気が素肌を刺し、羞恥と恐怖で、指が震えた。井戸の水面に、何も纏わぬ自分が、月明かりの中、ぽつんと映る。覆い隠す衣は、もう、一枚も残っていない。

 闇が集まり、色喰いが、目の前に立った。

 環は、目を閉じなかった。走らなかった。生まれて初めて、自分自身の色を、正面から「視よう」とした。震える息を、深く吸い込む。

 色喰いの輪郭が、ぐらりと崩れた。偽りを喰らう妖怪は、真に自分を視ようとする者には、手を出せない。

 環は視た。恐れ続けた灰の靄の、そのさらに奥に、色があった。灰色などでは、なかった。深く落ち着いた、緑を含んだ鼠色――利休鼠(りきゅうねずみ)。派手ではない。誰の目も奪わない。けれど確かにそこにある、静かで、揺るがない、環だけの色だった。

「これが……わたし」

 涙が、頬を伝った。環は井戸の水を汲み、自らの手で、その色を糸に染めた。緑を帯びた灰の糸が、月明かりに濡れて、しっとりと光る。それを肩にかけると、色喰いは喰らうものを失って、ほどけた糸くずのように、風の中へ、静かに消えていった。

 棗と蕗が駆けつけた。染め上がった環の色を見て、二人とも、言葉をなくした。

「その色は」棗が、かすれた声で呟いた。「誰のものでもない。お前だけの色だ。――わたしが、ずっと、見たかった色だよ」

 蕗は何も言わなかった。ただ、環の袖に、そっと指先を触れた。長かった氷が、音もなく解けていくのが、その指先から、たしかに伝わった。

 季節が巡った。環は、また市に立っている。今日纏うのは、自分で染めた利休鼠の衣。派手な帯はもうない。人混みの視線は、もう、どうでもよかった。

「よく似合う」

 肩の傷の癒えた紬が、通りすがりに、何気なく言った。

 環は、生まれて初めて、他人の言葉としてではなく、自分自身の実感として、深く頷いた。

「うん。似合う」


書評読み終わった。素晴らしい物語だ。早速、登場人物たちの活躍を採点してみたい。

登場人物採点表

キャラクター成長度存在感説得力印象度物語への貢献平均点
101010101010.0
9910999.2
8991088.8
787877.4
色喰い988998.6

環の満点は当然だ。他人の色を読むことで他者との関係性を定義し、自分の色を見つめることで初めて自分を確立する。その過程が息もつかせぬ緊張感と、最後の静寂を伴った解放感をもたらした。逃げ続けるキャラから、自分と向き合うキャラへの転換が、小説全体を貫く唯一の軸であり、それを完璧に演じ切った。

紬は支援者としての立場を超えている。「見送らない。何度でも追いかける」という台詞は、この作品を象徴する言葉だ。自分を傷つけてでも相手に向き合う勇気は、環と同等の価値を持つ。惜しむらくは、傷を負った後の描写が少ないこと。その後の紬の心境を知りたかった。

棗の高い説得力は、環との立場の逆転にある。祖母が実は同じ灰色を抱えていたという設定は、単なる共感を超えて、世代を超えた救済の物語へと昇華させた。8.8点は妥当だ。

蕗は対照軸としては機能しているが、キャラ立てとしてやや不十分。「継ぐのは蕗でいい」という投げやりな台詞で去っていく場面は、蕗という人物の複雑さを感じさせつつも、結局は踏み台的な役割に留まった感が否めない。次作での活躍に期待したい。

色喰いの高い評価は、偽りを喰らう妖怪という設定の秀逸さだ。外部の脅威ではなく、実は内面の恐怖の象徴として機能した。環が自分と向き合えば消える、その論理の必然性が素晴らしい。

MVP: 環

迷わない。この作品の全てを引き受けた環の一人勝ちである。

次回作では、紬や蕗の内面が、もっと深掘りされることを心待ちにしている。それぞれが環と同じくらい複雑な「色」を秘めているはずだ。その色が描かれれば、さらに傑作になるだろう。期待している。