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沈黙の受信機

 宇宙天啓監理局第三分室――正式名称を口にする職員はもう誰もいない。皆、自嘲を込めて「そらみみ局」と呼ぶ。空の耳、空耳。庁舎は旧い気象観測所を改装したもので、廊下の蛍光灯は半分が切れかけ、地下には今も使われないアナログ受信機が埃をかぶって並んでいる。深宇宙電波望遠鏡群が拾い上げる無数の揺らぎの中から、統計的な篩にかけられたわずかな残りだけが「天啓」という名前を与えられ、希望を求める市民へと配布される。

 久瀬(くぜ)悠一は、その篩の番人だった。二十年近く、来る日も来る日も、モニタに映る波形の山と谷に等級シールを貼り続けてきた。今日の担当は第三千二百十七番から第三千二百四十番までの候補パターン。指先はほとんど機械のように正確で、迷いがなかった。等級は五段階。最上位の「甲」は年に数件しか出ない。久瀬はその判定を、まるで儀式のように丁寧にこなす。

「久瀬さん」

 新人の芽室(めむろ)律が、隣の席からノートを閉じる音とともに声をかけてきた。入局してまだ半年の彼女は、コーヒーの染みがついたノートに、いつも生データを手書きで写し取っている。

「この認定基準って、そもそも何を根拠にしてるんですか。周波数分布が既知の天体現象で説明できない、っていうのは分かるんです。でも、それって結局『よく分からない雑音』を、そう呼んでいるだけじゃないんですか」

 久瀬はシールを貼る手を止めずに答えた。

「揺らぎの分布が、既知の説明の枠から外れていること。それが二十年間、局が守ってきた唯一の基準だ」

「でも――説明できないってことと、意味があるってことは、イコールじゃないですよね」

 芽室はそこで言葉を切った。久瀬は横目でその表情を見た。納得していない顔だった。いつもなら、久瀬はそこで話を打ち切っていた。「規則だから」のひとことで。だが今日はなぜか、芽室の疑問が喉の奥に小さな棘のように引っかかって、消えなかった。窓の外では観測アンテナの群れが、変わらず静かに天頂を向いている。

 退局後、久瀬はいつもより遠回りをして帰った。商店街の明かりが濡れた路面に滲んでいる。傘を持たずに歩きながら、久瀬は自分がこの二十年、芽室のような問いを一度も自分自身にぶつけてこなかったことに思い至った。分類という手続きの向こうに何があるのか、確かめようとしたことがなかった。確かめるのが、怖かったからだ。

 その夜、久瀬は自宅の押し入れから、亡き妻・冬香の遺品箱を下ろした。埃を払うと、樟脳(しょうのう)の匂いが立った。箱の中には、冬香が最期の数か月、繰り返し読んでいた一枚の受信記録――「天啓第九十一号」があった。紙はすでに黄ばんでいたが、文面は暗誦できるほど頭に染みついている。

 『あなたが恐れているものは、あなたを傷つけるためにそこにあるのではない。それは、あなたがまだ知らない優しさの形をしている』

 冬香は病室の白い天井を見上げながら、点滴の管を指でなぞりつつ、この一文を何度も口にしていた。「悠一、これ、私のために来たのかな」と笑っていた声を、久瀬は今でも覚えている。「宇宙の向こうの誰かが、私のことをちゃんと見ていてくれたんだね」――そう言った冬香の横顔は、痛みのせいで薄く汗をかいていたが、確かに安らいでいた。久瀬はその顔を見て、この仕事を辞めずに続けようと決めたのだった。読み返すうち、久瀬はふと、記録のヘッダー部分の活字が、局の古い正式記録とわずかに違うことに気づいた。フォントの太さが、少しだけ新しい。まるで、後から刷り直されたもののように。

 ――疲れているだけだ。気のせいだ。

 久瀬はそう自分に言い聞かせて、箱の蓋を閉じた。だが指先には、紙の違和感がいつまでも残っていた。

 翌日、志摩(わたる)と名乗る男が受付に現れた。四十代半ば、スーツの肩に雨の匂いを残していた。

「母が、あと数週間だと言われました。最後に、天啓を受け取らせてやりたいんです。母はずっと、そういうものを信じてきた人なので。若い頃に一度、苦しいときに救われたことがあると聞いています。だから、今度も」

 申請書を書く亘の手は、終始かすかに震えていた。文字の線が何度も揺れて、書き直された跡があった。久瀬はその震えをじっと見ていた。

「分かりました。お預かりします」

 久瀬はそう言ってから、続けてこう付け加えた。

「必ず、良いものをお届けします」

 口にした瞬間、久瀬は奇妙な違和感に襲われた。この台詞を、これまで数えきれないほど口にしてきたはずなのに、今初めて、自分がその意味を本気で考えたことが一度もなかったと気づいたのだ。窓口の向こうで、亘が深く頭を下げて去っていく後ろ姿を、久瀬はしばらく見送っていた。

 数日後、芽室が久瀬のデスクに厚いファイルを置いた。

「久瀬さん、これ見てもらえますか。過去五年分、天啓に認定されたパターンと、認定されなかった背景雑音を、全部数値化して比較したんです。夜、勝手にやりました」

 久瀬はファイルをめくった。グラフが並んでいた。認定群と非認定群の分布は、ほとんど重なっていた。

「有意差、出ませんでした。統計的には、どちらもただの雑音です」

「それは――解析の設計に問題があるんじゃないか」

 久瀬は反射的にそう言った。だが言いながら、自分の声に力がないことに気づいていた。芽室は何も言わず、ただファイルの上に指を置いたままだった。

 その晩、局に一人残った久瀬は、過去の生データを自分の手で検証し直した。手法を変え、期間を変え、何度計算しても、結果は同じだった。差はない。天啓と呼ばれてきたものは、統計的には、認定されなかった無数の揺らぎとまったく区別がつかなかった。モニタの光だけが、暗い室内で久瀬の顔を青白く照らしていた。

 久瀬は記録庫の奥、めったに人が入らない棚まで降りて、冬香の「天啓第九十一号」の原本を探し出した。裏面を確認する。そこには、小さく識別番号が印字されていた――局内で慰めの言葉を定型的に生成するために使われている、汎用テンプレートの番号だった。同じ番号は、他の何十枚もの記録の裏にも並んでいた。

 冬香が繰り返し読んでいたあの一文は、宇宙から届いた声などではなかった。誰にでも渡される、既製の優しさだった。

 久瀬は原本を手にしたまま、しばらく動けなかった。記録庫の蛍光灯が、規則的に小さく点滅していた。

 翌朝、久瀬は主任の桐生(きりゅう)尚之の部屋を訪ねた。

「知っていたんですか。天啓が、雑音に定型文を貼り付けただけのものだと」

 桐生は書類から顔を上げ、久瀬をまっすぐに見た。声を荒げることはなかった。

「知っていた。最初からだ」

「なら、なぜ」

「久瀬。お前の奥さんは、最期の三か月を、あの言葉に支えられて過ごした。それは事実だ。俺たちが配っているのは嘘じゃない。行き場のない不安に、ようやく寄りかかれる何かを渡しているだけだ。それの何が悪い。お前だって、あの三か月がなかったことになればいいと、本気で思うのか」

 久瀬は反論しようとして、言葉が出てこなかった。桐生を悪人として切り捨てることは、どうしてもできなかった。桐生の言うことは、半分は正しかった。だが半分は、久瀬の中の何かを許さなかった。

「俺は、あなたを告発しに来たわけじゃありません。ただ、知りたかっただけです」

 久瀬はそう言って部屋を出た。廊下の窓から見える空は、灰色に曇っていた。桐生の言葉は正しい。だが正しいということと、それを自分がこれからも続けられるということは、別の話だった。久瀬は歩きながら、自分の中で何かがゆっくりと位置を変えていくのを感じた。冬香の三か月が偽物だったとは思いたくない。だが、あの安らぎを作ったのが宇宙ではなく、局の誰かの手だったのなら――久瀬にできることは、もう一度、自分の手で何かを渡すことしかないのかもしれなかった。

 志摩千鶴への配布期限が迫った夜、久瀬は一人、端末の前に座っていた。定型テンプレートの呼び出し画面が、静かに久瀬の返答を待っていた。指がキーの上に浮いたまま、動かなかった。亘の震える手が、頭の中で何度も繰り返された。

 久瀬は画面を閉じた。代わりに、白紙の申請書を開いた。

 しばらく、何も書けなかった。カーソルが規則的に点滅するのを、久瀬はただ眺めていた。何度か、指はテンプレート呼び出しのボタンの上に戻りかけた。それが一番安全な道だと分かっていた。定型文なら、間違えようがない。誰も久瀬を責めない。だが安全という言葉が、今の久瀬にはひどく空々しく響いた。だがやがて、久瀬はキーを叩き始めた。局の様式にも、天啓の文体にも従わない、自分自身の言葉で。書いては消し、また書いた。冬香のことを、亘のことを、そして自分がこの二十年に見てきた無数の震える手のことを思い浮かべながら、一文字ずつ選んだ。時計の針が二回りするころ、ようやく一枚の文章が仕上がった。

 翌朝、久瀬は印刷したその手紙を、封筒にも入れず、そのまま亘に差し出した。

「これは、正式な天啓ではありません。局の記録にも残りません。私個人からの、言葉です」

 亘は戸惑った顔で紙を受け取った。読み進めるうちに、その表情がゆっくりと変わっていった。手紙にはこう書かれていた。

 『あなたのお母様がどんな人か、私は存じません。ですが、あなたが震える手で申請書を書いていたことは知っています。それは、あなたがまだお母様のためにできることを探し続けているということです。天から与えられる答えなど、私にはお渡しできません。ですが、あなたがそこまで誰かを想えることは、すでに一つの答えだと、私は思います。どうか、それを持って、お母様のそばにいてください』

 亘はしばらく紙から顔を上げなかった。そして、深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 その声は、これまで久瀬が聞いてきたどの「感謝の言葉」とも違っていた。窓口の向こうで、亘は手紙を大切そうに折りたたみ、内ポケットにしまってから去っていった。

 数日後、芽室が久瀬の席にやってきた。

「久瀬さん。これからも、同じ仕事、続けるんですか」

 久瀬はすぐには答えなかった。窓の外では、今日も観測アンテナが静かに空を向いている。二十年間、変わらなかった風景。

「等級を貼るだけの仕事なら、たぶん、もう前と同じようにはできない」

 久瀬は受信機の前の椅子に、いつもと違う姿勢で座り直した。背筋を伸ばし、モニタではなく、芽室の顔を見て続けた。

「でも、等級じゃなく、自分の言葉で応えることもできると分かった。それを、続けてみようと思う。お前も、疑問を持ち続けろ。それが多分、この局に一番必要なことだ」

 芽室は少し驚いた顔をしてから、小さくうなずいた。ノートを開き、また何かを書き留め始める。その姿を見ながら、久瀬は自分がかつて一度も持たなかった種類の安堵を覚えた。

 窓の外で、観測アンテナがゆっくりと角度を変える。今日もどこかで、微弱な揺らぎが受信され、等級シールを待っている。受信機は、今日も沈黙したままだった。宇宙からの声は、結局一度も届いていなかったのかもしれない。だが久瀬の声は、初めて誰かに届いていた。それだけで、十分だった。


書評読み終えて最初に思ったのは、これはコンビニのコーヒーマシンだな、ということだった。いや、突然何を言い出すんだと思われるかもしれないが、聞いてほしい。あのマシン、ボタンを押すと機械的な音を立てて豆を挽き、湯を注ぎ、紙コップに「香り高い一杯」を注いでくれる。でも実際のところ中身は、どの店舗でも同じ濃度で管理された、均一な液体だ。それでも人は毎朝それを買って、ひと口飲んで「今日も頑張ろう」と思う。この主人公・久瀬さんがずっとやっていた「天啓」の分類作業って、まさにあのマシンの裏側にいる人の仕事だったんじゃないかと思う。

物語の中盤、久瀬さんが自分の亡くなった奥さんが受け取った啓示が定型テンプレートだったと知る場面がある。あれを読んだとき、私は昔ATMの前で「振込手数料が実は思ったより高くてがっかりした話」を思い出した。方向性としては全然違う話なんですが、「信じていたものの裏側に、無機質な仕組みがあった」という寂しさの質感が、なんだか似ている気がしたのだ。ATMは別に人の心を救おうとしていないので、比較としてはいささか失礼かもしれないが、久瀬さんの喪失感の輪郭を掴むのに、私にはこの連想が一番しっくりきた。

主任の桐生さんが「それで救われた人間が現にいる」と静かに言い返すところは、まるで駅前でよく見る、賞味期限が今日までの半額弁当を「でも美味しいから」と勧めてくる惣菜屋のおばちゃんみたいだった。安さや便宜の話ではないのに、なぜかその図が頭に浮かんでしまい、桐生さんの言い分がやたら生活感を伴って響いてきたのは、我ながら奇妙な読書体験だったと思う。

クライマックス、久瀬さんが定型文を使わず、自分の言葉で手紙を書くところは、正直、手紙というより「駅の伝言板」を思い出した。今どきの若い人は見たこともないかもしれないが、昔、駅の柱に小さな黒板があって、そこに待ち合わせの相手宛てにチョークで一言だけメッセージを書き残せた。誰かに向けて、たった一行、自分の字で書く。あの伝言板の切実さと、久瀬さんが白紙の申請書に向かって指を止めながら文字を選んでいく場面の切実さは、驚くほど同じ手触りをしていた気がする。

最後、芽室さんに「疑問を持ち続けろ」と言うシーンでは、部活の最後の日に顧問が「お前らはもう教えることは教えた」って急に素っ気なく言うあの感じを思い出した。感動的なはずのシーンなのに、なぜか青春時代の放課後を思い出させられてしまい、少し落ち着かない気持ちになったが、悪い読後感ではなかった。

というわけで、コーヒーマシン、ATM、惣菜屋、伝言板、部活の顧問と、脈絡のない例えばかりを並べてしまったが、これはつまりこの小説が、日常のあちこちに転がっている「仕組みと本心のあいだの隙間」を思い出させる力を持っていた、ということなのだと思う。我ながら、なかなか的確な例えを見つけられたのではないだろうか。