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しめり

 家庭裁判所の待合室は、乾いているようで、どこか湿っていた。壁に染みはない。床も曇っていない。空調は行き届いていて、古い建物にありがちな紙の匂いも薄いのに、亮には、洗って半日だけ室内に干したシャツの胸元みたいな湿り気が、ずっと鼻の奥に貼りついている気がした。

 背もたれの硬い椅子が等間隔に並び、向かいの壁の時計が秒を刻むたび、誰かの膝の上で書類の端がかすかに鳴る。亮はその音を数えかけてやめた。意味がないとわかっていても、やめるまでに二拍かかる。その二拍に、自分の癖が収まっている。

 戸口に近い席に透子が座り、その隣で娘の麦が膝を揃えたり崩したりしながら、足先だけ忙しく揺らしていた。亮は二人の斜め向かいに腰を下ろし、足元の黒い鞄の向きを、つま先で少しだけ壁に平行に直した。

 透子は灰色の薄いカーディガンを着ていた。肘のあたりの編み目がほんの少し伸びている。襟元に手がいく前に、必ず一度、袖口を引く。そういう順番のある人だった。亮はその順番を知っているし、知っていることを手放せないままここまで来た。

 麦が亮のほうを見た。見るというより、顔の上を一度視線でなぞるようにしてから、小さな(てのひら)を差し出した。何かをねだる仕草ではなく、机のない場所に合図だけを置くような出し方だった。亮が動かずにいると、麦は手を引っ込め、両膝の上で指を組み直した。組み直して、またすぐほどく。待つあいだの形を、まだ決められずにいる手だった。

 亮は麦の前髪の分かれ方を見た。右に流れている。朝、誰が直したのかまではわからない。透子か、本人か。その判断に必要な材料が足りないと感じた瞬間、胸の奥で小さく苛立ちが立った。わからないことがあると、そこに針を刺したくなる。穴を開けて中身を確かめたくなる。その癖が、ここへ来るまでにどれだけ余計な傷を増やしたか、亮は知っていた。

 通路を、職員の名札をつけた女性が横切った。長越汐里。前回もいた。歩幅が一定で、書類の束を持つ腕が揺れない。人を待たせる場所では、急ぎすぎる足どりがかえって周囲を焦らせることを知っている人の速さだった。彼女は一度だけ待合室を見回し、視線を壁際の観葉植物に落とし、それからまた通り過ぎていった。

 そのとき、麦が片手を開いた。まだ湿り気の抜け切らない葉のような掌だった。亮が視線を向けると、麦はもう片方の手を軽く振って、黙ったまま息を整えた。透子は止めず、耳の後ろの髪をひとすじ直した。

 亮は、その合図を知っていることに気づいた。三人で暮らしていたころ、夕食の支度を待つあいだ、麦はよくじゃんけんをした。勝ち負けそのものより、出したあとに残る空気を楽しんでいるような遊び方だった。亮はたいてい勝てた。最初の二、三回で相手の出方の癖を拾う。肩に力が入るか、手首の返しが早いか、出す直前に視線がずれるか。透子は考えると上唇の内側を一度だけ歯で押した。麦はまだ幼かったから、読みやすかった。

 その読みやすさを、亮は自分の手柄のように扱っていた。

 麦が口を開く。

「じゃんけんぽん」

 声は小さかったが、乾いた壁に当たって、思ったより丸く返ってきた。亮は反射的に手を出した。麦はぱあで、亮はぐうだった。麦の肩がほんの少し上がる。その瞬間、亮は、娘の視線が自分の手ではなく自分の顔にあるのを見た。

 麦は何も言わない。勝ったとも言わない。ただ、亮の眉間と口元のあいだに浮いたものを確かめるように見て、それから掌を膝に戻した。

 亮は、負けたときの顔をいま自分がどうしているのか、遅れて意識した。眉は寄っていないか。唇が薄くなっていないか。読まれている側に回ったことに、筋肉が落ち着く場所を失っていた。

 透子はそのあいだ、膝の上の書類に視線を落としたまま、左手の親指で右手の爪の脇を押していた。押して、離し、また押す。痛みを小さく作って、ほかのものをそこへ逃がしているような動きだった。亮はその癖を知っている。知っていることに胸が先に反応し、理解は遅れてついてきた。透子は怒っているのでも、ただ苛立っているのでもなかった。崩れないために、いま崩れそうな場所を指先ひとつで押さえているのだと見えた。

 麦は両親のどちらにも寄らない位置に、きちんと自分の膝を置いていた。椅子の縁ぎりぎりまで腰を浅くし、靴先だけを内側へ寄せている。その姿勢は、すぐに立てる子どものものではなく、どちらかが急に大きくなった感情を出したときに、先に縮こまれるように準備している身体の形だった。亮はその小さな背中に、自分が覚えさせたかもしれない用心深さを見た。

 透子は横で書類の角を指先でなぞっていた。亮と目を合わせない。合わせないこと自体が、もう長く続いてきた習慣になっている。彼女の手元の紙が何なのか、亮には判別がつかない。その白さの曖昧さが、また胸の内側をざらつかせた。

 麦は二度目の合図を置いた。今度は少し身を乗り出し、亮だけでなく透子の膝の上にも視線を落とした。透子は一拍だけ遅れて書類から手を離した。

「じゃんけんぽん」

 三つの手がほとんど同時に開く。亮はちょき、麦はぐう、透子はちょきだった。麦が勝ち、亮と透子が負けた。だが麦は自分のぐうを見ない。透子のちょきを見ない。亮の顔を見たあと、すぐ透子の顔へ移った。負けたほうの顔を、順番に拾っていた。

 亮のなかで、何かの向きがほんの少し変わった。言葉にした途端に平らになってしまいそうな、小さな転倒だった。

 待合室の端の自販機まで歩き、亮は水を買った。硬貨を入れる指先が少し湿っている。缶が落ちる鈍い音で、近くの椅子の男が顔を上げた。亮はそのまま窓際に立った。外の植え込みは、雨は降っていないのに土の色だけが濃い。昨夜の雨が残っているのだろう。乾ききる前の地面は、ただそこにあるだけで、踏みしめた靴底の感触を想像させた。

 透子と別れてから、亮は観察の精度を上げた。仕事でも役に立った。沈黙の長さや、会議で誰がどの瞬間にペンを置くかを見れば、先回りができた。相手がいちばん触れられたくないところも、うっすら見えた。見えれば押せる。押せば通る。そうやって進めてきた。

 家庭でも同じことをした。透子が何を言い出すか、その前にわかったつもりで手を打った。麦が機嫌を崩す前に、原因を取り除こうとした。けれど、先に見抜くたびに、相手の側に残るはずの迷いや言いよどみまで奪っていたのかもしれない。言葉になる前のためらいに形を与えず、そのかわりに自分の理解を置いてしまう。亮はそれを配慮だと思っていた。

 長越が戻ってきて、入口近くで何かを確かめた。名札の白地が蛍光灯にひかる。彼女の視線は落ち着いていて、誰に対しても必要以上にやさしくはない。その硬さが、逆に場を安定させていた。

 席に戻ると、麦がまた掌を出していた。今度は亮ではなく透子に向けている。透子は少し迷ってから手を出した。

「じゃんけんぽん」

 麦はちょき、透子はぐう。麦が負ける。麦はすぐに母の顔を見た。透子は勝ったのに、口元に何も浮かばない。むしろ、麦が自分を見ていることに遅れて気づいたような顔をした。その頬の筋肉のわずかな強張りを、亮は見た。見た途端に、そこへ意味を置きたくなる。けれど、その手前で缶の表面の水滴を親指でぬぐった。ぬぐっても、すぐ新しい粒が浮いた。

 麦は今度、亮のほうへ体を向けた。三人でやるのだとわかる。両手をいったん握ってから、ゆっくり開いた。

「じゃんけんぽん」

 亮はぱあ、麦はちょき、透子はぱあ。麦が勝った。けれど麦は勝った手を見ず、今度は亮ではなく透子の顔を先に見た。負けた人だけではない。勝った人の隣で、負けを受けとる人たちの顔も見ている。その順番の細さに、亮はようやく気づいた。

 麦は、手そのものより、手を出したあとに人の顔へ浮かぶものを見ている。勝ち負けを決める遊びの形を借りて、何か別のものを確かめている。誰が先に目を逸らすか。誰が、わずかな恥や苛立ちや安堵を隠すか。あるいは、誰がその瞬間に、自分ではなく相手を見るか。

 その理解が胸に落ちたとき、亮は、自分がずっと手ばかり読んでいたことを知った。肩の入り方、指の開き方、癖。けれど麦は、手が出たあとに残る顔を読んでいた。勝つためではなく、その人がいまどこにいるのかを確かめるために。

 亮はふいに、夕方の台所を思い出した。まだ三人で暮らしていたころ、透子が味噌汁の火を止め、麦が椅子の上で靴下を脱ぎかけたまま座っていた日がある。亮はそこで、透子が疲れていることを先に見抜き、麦がぐずる前にテレビの音量を下げ、食卓の上を片づけ、正しい順番で動いた。透子は礼も不満も言わなかった。その沈黙を、亮は感謝だと受け取った。いま思えば、あのとき透子の口元に浮かびかけていたため息ごと、自分は手際のよさで押し戻したのかもしれない。相手より早く気づくことは、相手より深く分かることではなかった。

 長越が待合室に戻り、次の順番を知らせるために名簿を確かめた。誰の名もここには書けないように、声は抑えられていたが、呼ばれるまであとわずかであることだけは、部屋全体の空気の張りでわかった。麦もそれを感じ取ったのか、さっきまでより背筋を伸ばし、靴の先を椅子の脚に揃えた。

 透子は膝の上の書類を整えた。角と角を合わせる手つきに、亮は以前の朝を思い出した。食卓で学校の配布物を揃える指先。麦のハンカチを畳み直す手。自分はいつも、その几帳面さを頼もしいと思うより先に、どこまで自分の想定どおりに並んでいるかを見ていた。整っていることを、心地よさではなく、予測可能性として受け取っていた。

 麦がもう一度、手を上げた。呼ばれる前の、最後の合図のようだった。亮は息を吸い、透子の右手を見た。薬指が浅く曲がっている。ぐうが来る。いまなら取れる。ぱあを出せば勝てる。答えが先に固まりかける。

 そのとき、麦が亮を見た。いつものように、まっすぐ顔を見ていた。何を出すかではなく、出したあとの顔を待っている目だった。亮はその目の前で、自分がまた同じことをしようとしているのを見た。勝つためではない。読める男である自分を失わないために、読む。読むことで、自分が傷つく前に立場を確かめる。そうやって、不確かさのほうへ一歩も出ない。

 麦が小さく息を吸う。

「じゃんけんぽん」

 三人の手が出る。

 亮は、最後まで決めきらなかった。読みの計算が何度も身体に戻ってきたが、そのたびに手の形を固定しなかった。自分の手が自分にも読めないものになるのを、亮はおそろしく感じた。相手と同じ不確かさの場所に立つことが、こんなにも心細いものだとは思わなかった。

 出た手はちょきだった。

 透子はぐう、麦はぐうだった。

 亮が負けた。

 その事実が落ちた次の瞬間、亮は反射で表情を整えようとして、やめた。眉間の緊張も、唇の薄さも、消しきらないまま受けた。麦の視線が顔に触れる。透子の視線も、遅れてそこへ重なる。三人のあいだに、勝敗より少しだけ長い沈黙ができた。

 麦はその沈黙を怖がらなかった。亮の顔を見て、それから透子の顔を見た。透子はぐうを出した手を引っ込めず、膝の上に置いたまま、指先の力をゆっくり抜いていった。右の薬指も、もう曲がっていない。

 亮はそのとき初めて、負けることそのものより、負けたあとに自分の顔がどう見えるかばかりを気にして生きてきたのだと思った。父親であることまで、勝った形で保存しようとしていた。けれど、いま麦が見ているのは、勝ったか負けたかではない。負けを受けた顔が、誰かを刺し返そうとするのか、それともそのままそこで止まるのか、その違いだけだった。亮は喉の奥に残っていた言い訳を飲み込み、椅子の端を握っていた指をゆっくりほどいた。

 長越が立ち止まり、三人のほうへ目を向けた。呼ぶ順番が来たのだろう。彼女は名札の下で静かな表情を崩さない。事務的であることが、この場所ではひとつの救いになる。亮は鞄の持ち手を握った。立ち上がる前に、麦が自分の掌を見た。ぐうの形を、いまになって確かめるように。つぎに、亮のちょきを見て、それからまた顔を上げた。

 その目の動きは、誰かを裁くものではなかった。ただ、この場にいる人間が、どこに立っているかを知ろうとしていた。乾いた声、湿った指先、逃げる目。そういうものを、子どもは言葉になる前に受け取ってしまうのだと、亮は思った。

 亮は立ち上がった。透子も立つ。椅子の脚が床を擦る音が、短く重なる。亮は透子のほうを見た。何か言うべき場面なのかもしれないと思ったが、ここで差し出すどんな言葉も、場を狭くする気がした。麦が二人のあいだに入る。手はつながない。ただ、同じ幅で歩けるところに立つ。

 透子のカーディガンの裾が椅子の金具にかすかに触れた。亮は反射で手を伸ばしかけて止め、半拍遅れて、引っかかりそうになった布だけをそっと外した。以前の自分なら、そのまま麦の水筒まで持ち、書類まで受け取り、歩く順番まで整えていたはずだった。そうしないと、自分が無能に見える気がしていた。けれどいまは、全部を整えないことのほうが、ようやくこの場に合っているように思えた。

 長越の案内で廊下へ向かうと、待合室の空気が背中から離れた。窓から入る光は白く、外の植え込みの土はまだ少し濃い。昨夜の雨が、見えないところで残っている。亮は自分の掌を見た。さっき出したちょきの形は、もう残っていない。指はただの指に戻っている。それでも、何かを決めるために先回りしなかった感触だけが、遅れて皮膚の内側に残っていた。

 部屋の前で足が止まる。透子がわずかに息を吐き、麦がその横顔を見る。亮もまた、見る。だが、そこから先を読もうとはしなかった。読めないまま立つことは、湿った床に革靴のままで降りるみたいに心もとない。それでも、いまはその感触を引き受けるしかなかった。

 扉が開く。

 亮は、先に行かせるためでも、主導権を取るためでもなく、ただ通る順番の偶然に身を預けて、一歩踏み出した。


書評派手な話じゃない。家庭裁判所の待合室で、じゃんけんをするだけだ。そんなもの、よほど腕がないと持たないと思うが、これは持った。悪くないどころか、かなりしぶとく残る。

何がいいかと言えば、勝ち負けを書いているようで、実際には負けたあとの顔を書いているところだな。大人はつい言葉でごまかすが、この話ではその逃げ道が最初から塞がれている。だから、指の動きや水滴や息の詰まり方みたいな、ふつうなら読み飛ばすようなものが、そのまま人間の値打ちみたいに見えてくる。あれはうまい。

父親の亮という男も、簡単に反省してきれいになるわけじゃない。そこがいい。読めることを武器にしてきた人間が、最後に読まないでいるだけで、ずいぶん違って見える。たいしたことをしたわけじゃないのに、その「たいしたことをしない」踏みとどまり方に重さがある。そういう終わり方は信用できる。

娘の麦も効いている。かわいそうな子に寄せすぎないで、ちゃんと場の空気を見ている一人として立っている。子どもは分からないようでいて、湿ったものだけは妙に早く嗅ぎつける。あの感じ、ある。

全体に声を荒げない。説明もしすぎない。それでいて、読後に掌が少し汗ばむ。こういう小さい話を小さいままで終わらせず、ちゃんと傷の深さまで届かせるのは、そう簡単じゃない。まあなかなかだった。あとで静かに効いてくる。