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AI talk to you

今日も、遠回り。

 朝五時、川辺町の住宅街はまだ夜の続きの中にあった。

 街灯の白い光の輪だけが等間隔に浮かび、その他はすべて青黒い影に沈んでいる。本多航は玄関の鍵を閉め、吐く息の白さを目で追いながら、リュックの肩ベルトを一度締め直した。防寒着のジッパーを喉元まで上げ、頭の中では今日のルートを反芻している。始発前のコミュニティバス、境川沿いのレンタサイクル、渡し船の始発時刻——順番も時間も、もう何十回と辿ってきた道筋だ。玄関先の鍵は、開け閉めするたびに小さく軋む。そろそろ油を差さなければと思いながら、結局今日も忘れていた。

 誰かに見せるための儀式ではない。見ているのは、まだ寝静まっている家々の窓と、たまに通り過ぎる新聞配達のバイクくらいのものだ。生垣の陰から野良猫が一瞬こちらを見て、興味を失ったように塀の向こうへ消えていく。それでも航は、鼻歌交じりに歩き出す。今日はいつもよりほんの少し、足取りが軽かった。靴底はもう三足目のトレッキングシューズで、踵の減り方にも見覚えがある癖がついている。

 冷蔵庫に入れたままのプリンのことを思い出したからだ。

 バス停に向かう途中、スマホが短く震えた。液晶の端にわずかな傷が入っている画面を親指でなぞりながら、通知を開く。昨日の退勤前に送られてきたLINEを、寝る前にもう一度見返していたのを思い出す。同じ部署の同僚からのメッセージだった。

〈今日も遠回り出社?物好きだね〉 〈俺なら絶対しないわ、あんな効率悪いこと〉

 スタンプ代わりに、笑いすぎて涙を流しているようなアイコンが添えられている。悪意があるわけではない。ただ、心の底から理解できない、という空気がそのまま文面ににじんでいた。既読はついたが、返信までの間があった分だけ、既読スルーみたいな気まずさが少し残っている。

 航は歩きながら短く打ち返す。

〈まあ、これはこれで楽しいので〉

 それだけ送って、スマホをポケットに戻した。誰に評価されるための五時間でもない。それだけのことだった。


 始発前のコミュニティバスは、ガラガラだった。乗客は航のほかに二人、それぞれ違う方向を向いて眠っている。運賃箱の脇に貼られた色褪せた路線図、運転席のラジオから漏れる小さな交通情報、床にわずかに残る誰かの傘の水滴の跡。エンジンの低い唸りと、時折軋む座席の音だけが車内を満たしていた。窓の外を流れる街灯の光を眺めながら、航は小さく伸びをする。ICカードをタッチした時の電子音だけが、やけにクリアに響いた。

 河川敷でバスを降り、いつものレンタサイクルポートで自転車を借りる。ポートの端末に手袋を外した指先で暗証番号を打ち込み、ロックが外れる小さな金属音を確認してからサドルの高さを調整した。境川沿いのサイクリングロードは、まだ誰も走っていない。アスファルトの継ぎ目を踏むたびにタイヤが小さく跳ね、その振動がハンドル越しに手のひらへ伝わってくる。ペダルを踏み込むたびに、川面を渡ってくる朝の冷たい風が頬を撫でた。ディーゼル臭いバスの車内から一転、水と土のにおいがする。堤防の上を飛ぶ鷺が一羽、羽音を立てて対岸へ移っていった。速度も、音も、匂いも、移動手段が変わるたびに丸ごと入れ替わる。それが、単純に好きだった。

 境川渡船の乗り場に着く頃には、空がわずかに白み始めていた。木製の桟橋は歩くたびに軽く沈み込み、係留された小さな渡船の船体には「けいがわ丸」と、掠れた手書きの文字が残っている。顔なじみの船頭が、断熱ボトルの蓋を片手で閉めながら係留ロープを手繰り、顔を上げた。

「おう、今日もお勤めご苦労さん」

「いやあ、これがご褒美みたいなもんで」

 軽口を叩き合いながら、航は救命胴衣を受け取って渡船に乗り込んだ。座面はひんやりと湿っていて、そこにも早朝らしさがある。二サイクルエンジン特有の、ぱたぱたという軽い音が響き、船体がゆっくりと岸を離れる。川面に朝日の欠片が跳ねるのを眺めながら、航は心の中で独白した。

(今日はあのプリンがあるから、なおさら気合が入る)

 昨日、給湯室の冷蔵庫に入れたコンビニのプリンだ。カラメルソースの小袋が別添えになっている、少し高めの一品を奮発した。賞味期限は今日まで。誰かに取られる心配はまずないが、それでも「今日中に食べる」というささやかな目標が、いつもの朝をほんの少しだけ特別にしていた。

 渡船が川の中ほどに差し掛かった頃、対岸に古い鉄橋がぼんやりと見えてきた。使われなくなった貨物線の跡だ。錆びついた鉄骨の隙間から、朝もやが薄く漏れているように見える。船頭がそれに目をやりながら、世間話程度に口を開く。

「あの鉄橋、まだ渡れるんですかね」

「渡れますよ、多分僕くらいしか渡らないですけど」

 航は少し得意げに答えた。船頭は「へえ」とだけ言って、それ以上は深追いしない。二人にとっては、それだけの会話だった。

 渡船を降り、最寄り駅までの短い坂道を歩く。途中のコンビニではもう店員が看板の電源を入れていて、自動ドアの開閉音が朝の静けさに小さく響いた。電車に乗り込んだのは、いつもとほとんど変わらない時刻だった。


 異変は、電車がホームを離れて数分後に起きた。

 車内の電光掲示板が、前触れもなく一斉に消える。数秒遅れて空調のファン音がふっと止まり、車内が急に静かになった。次の瞬間、車両ががくんと大きく揺れて緊急停止した。つり革が一斉に揺れ、誰かの手からペットボトルが転がり落ちる音がする。天井のアナウンス用スピーカーが何か言いかけて、途中でぷつりと途切れた。乗客たちの間に、小さなどよめきが広がる。

 しばらくして、電車はのろのろと最寄りのホームまで移動し、そこで完全に止まった。ドアが開くと同時に、乗客たちが押し出されるようにホームへ溢れ出す。普段は聞こえないはずの空調の停止音と、非常灯の点滅音が、やけにはっきりと耳に届いた。

 ホームの電光掲示板もすべて消えている。駅員のアナウンスが三度繰り返されたが、どれも要領を得なかった。制服の駅員がハンドマイクを片手に、束ねた誘導灯を握ったままホームを行き来している。「システム障害の影響で」「復旧の見込みは現在確認中」——そんな言葉が断片的に聞こえるだけで、状況の全体像は誰にもわからない。

 航も一瞬、他の乗客と同じように足を止めた。スマホを取り出し、電波の状況を確かめようとする。アンテナのバーはゼロのまま動かない。何度か画面をタップして、繋がらないことを改めて確認するためだけの操作を繰り返している自分に気づき、内心で苦笑した。周りでも同じように画面をタップしては眉をひそめる人が何人もいて、改札の方ではICカードの読み取り機が反応しないのか、押し合いになりかけている。

 頭の片隅を、給湯室の冷蔵庫がよぎる。(こんな時にまでプリンの心配とは、我ながらどうかしている)——そう思いながらも、賞味期限のカウントダウンは律儀に進み続けている。

 数秒、雑踏に紛れて立ち尽くす。ホームにいる乗客たちは、誰もが似たような顔をしていた——困惑と、これからどうすればいいのかという迷いが浮かんでいるように見える。航もその一人だった。

 だが、それも数秒のことだった。

「まあ、こういう時のための遠回りだし」

 誰に言うでもなく呟いて、航は肩をすくめる。リュックの肩ベルトを締め直し、雑踏に背を向けた。目指すのはホーム端、普段なら駅員に睨まれるだけの非常用階段だ。今日ばかりは、非常灯の緑色がやけに歓迎的に見えた。

 階段を駆け下り、案内表示の消えた通路を抜ける。足元のコンクリートには水垢のような染みが点々と続き、壁際には掃除用具入れの扉が少し開いたままになっていた。シャッターが半分だけ開いた非常口から外へ出る。錆びた金属の縁に指先が触れ、ひんやりとした感触が伝わった。朝の光が眩しく感じられたのは、地下の非常灯に目が慣れていたせいだろう。

 外の道路も、ホームの中と大差ない混乱ぶりだった。信号の死んだ交差点で、車が譲り合うというより睨み合っている。クラクションが短く二度、三度と鳴った。歩行者はその隙間を縫うように歩いていた。航は一つ息をつき、頭の中の地図を境川方面へ切り替える。ここから先は、久しぶりに本領発揮の区間になりそうだった。

 と、視界の端に、動くはずのない場所で立ち尽くしているスーツ姿の男の姿が引っかかった。ビジネスバッグを両手で抱えるように持ち、革靴の爪先で苛立たしげに地面を叩いている。同じ電車の、別の車両から降りてきたのだろう。周りの誰もが立ち止まっている中で、その男だけがまだ何か算段をつけようとするように、忙しなく周囲を見回している。

(まだ動ける人、いたんだ)

 航は特に声をかけるでもなく、そのまま視線を外して歩き出した。今の彼にとって、その男はまだ「風景の一部」でしかない。

 裏道に入ってすぐ、背後から足音が近づいてきた。革靴のかかとが不揃いなリズムでアスファルトを叩く音は、スニーカーの足取りとは明らかに違う。振り返らなくても誰だかわかる。案の定、先ほど非常口の外で見かけたスーツ姿の男が、息を切らしながら小走りで追いついてくるところだった。

「すみません……この先って、本当に通れるんですか」

 半信半疑、というよりほとんど疑いしかない声だった。ネクタイが少し緩んでいて、額にはうっすらと汗が浮いている。全力で走ってきたのだろう、この程度の距離で、と航は少しおかしくなった。

「まあ、僕にとっちゃ通い慣れた道なんで」

 男の格好を、航はざっと観察した。仕立てのいいスーツに、磨き上げられたビジネスバッグ。そして足元は、艶のある革靴だ。爪先の縫い目が固く、長距離を歩くようにはできていない、いかにも「オフィス仕様」の装備だった。ソールの薄さも、この後の行程を考えると気がかりだった。

「その靴、今日はちょっと厳しいかもしれませんよ」

「……そうですか」

 男は少し眉を寄せて自分の足元を見下ろし、それから諦めたように肩を落とした。他に選択肢がないことは、本人が一番よくわかっているようだった。

「僕についてくれば大丈夫です。伊達に無駄な時間使ってないんで」

「いや、その理屈がよくわからないんですが」

(まあ、わからなくても付いてくるあたり、根は素直な人なんだろう)

 男は本気で困惑した顔をしたが、それでも航の後ろについてくることを選んだ。歩幅を合わせようとして、何度か小走りになる。歩きながら、二人はぎこちなく自己紹介を交わした。男は沢田健一と名乗った。ライバル企業「クラウドギア」の営業だという。得意先回りの途中でこの状況に巻き込まれたらしい。名刺を切らしているらしく、財布から出しかけて止め、結局口頭で済ませた仕草に、几帳面さと今の状況への戸惑いの両方がにじんでいた。

「普段はこんな道、通らないんですよね」

「でしょうね。僕もあなたの側から見たら物好きにしか見えないと思うんで」

「いや、そういう意味じゃなくて……」

 沢田が言い淀んだところで、航はもう先を歩き出していた。


 河川敷に出ると、朝の光が水面に反射してまぶしいほどだった。草の匂いに混じって、どこかで焚かれているらしい煙のにおいがかすかに漂っている。堤防の上に立つと、対岸の建物の何棟かで窓ガラスが割れているのが遠目にも見えた。普段なら気づかない距離の変化が、今日はやけに目についた。

 土手の斜面を下ったところで、うずくまっている人影に気づいたのは航が先だった。

「大丈夫ですか」

 声をかけると、七十代くらいの女性が、膝を押さえたまま顔を上げた。近所で小さな商店をやっている田村さんだという。買い出しの途中で転んで、膝を痛めて動けなくなっていたらしい。足元には、倒れたまま中身が散らばったエコバッグが転がっている。大根が一本、卵のパックが一つ、それに小分けにされた漬物の袋。土の上に転がった卵のパックは、幸い割れていなかった。

「情けないねえ、こんなところで。信号も止まっちまって、慌てて渡ろうとしたら段差に足取られて」

「いえいえ、立てますか。無理しないでくださいね」

 航が土地勘を頼りに、少し先にある東屋まで田村さんを誘導する。沢田が黙って反対側から肩を貸した。革靴の足取りは重かったが、文句一つ言わなかった。田村さんの体重を半分ほど預かりながら、時折よろけそうになる沢田自身の足元にも気を配っている様子が航の目にも見えた。

 東屋にたどり着き、田村さんをベンチに座らせる。散らばったエコバッグの中身を航が拾い集めて戻した。膝の様子を確かめようとしゃがみ込むと、田村さんは苦笑いで手を振った。

「大丈夫、大丈夫。骨は折れてないよ、これくらい」

「無理は禁物ですよ。少し休んでから、誰かお店の方に連絡取れそうですか」

「今日はちょうど店を開けない日でね。孫が来る予定だったんだけど……ああ、こんな時に来てなくてよかった」

 田村さんは短く孫の話をし、それから「気ぃつけてな」と二人を見送った。歩き出してすぐ、沢田がぽつりと呟く。

「……あなた、この辺のこと本当に詳しいんですね」

「まあ、無駄に詳しいのが取り柄なんで」

 語尾は軽かったが、沢田はそれ以上茶化さず、少し考えるような間を置いてから小さく頷いた。

 移動を再開すると、航はまた饒舌になった。

「実はこの道、渡し船の非公式な時刻表があって……あ、あっちに見えるボロい鉄橋、あれも実は渡れるんですよ。旧貨物線の跡で」

「今それ関係あります?」

「いや、関係あるかどうかは今はわからないですけど、知っといて損はないですよ、こういう時は」

 沢田が真顔で突っ込む。航は特に気にする様子もなく、鉄橋の話はそのまま雑談として流れていった。


 汐見エリア手前の三叉路に差し掛かると、空気が一変した。信号が完全に停止した交差点に、車と歩行者が入り乱れている。誰かの怒鳴り声、クラクションの連打、遠くで鳴り続ける防犯ブザーのような音——さっきまでの河川敷の静けさが嘘のようだった。歩道の縁石に座り込んでいる人、電話ボックスの周りに列を作っている人、それぞれが自分の焦りだけを抱えて立ち尽くしている。

「これは……ひどいな」

 沢田が思わず呟いた声には、初めて聞く緊張が混じっていた。

 その群衆の縁、電柱の陰に、電池切れ寸前のスマホを片手に立ち尽くす女子高生の姿があった。陸上部らしいジャージ姿で、腕時計と人混みを交互に睨みつけている。焦りが、突っ立ったままの姿勢の隅々にまで出ていた。バッグの持ち手を握る指先が、白くなるほど強張っている。

「大会会場のほう、近道知ってますよ」

 航が声をかけると、女子高生はさっと後ずさった。見知らぬ大人二人、それも片方はどう見ても迂回のプロで、もう片方はスーツで息を切らしている——組み合わせとしては不審者以外の何物でもない。

「……ほんとに?」

 警戒は一瞬だった。値踏みするような視線が航と沢田を素早く往復し、それだけで判断を下したらしい。橘遥と名乗った彼女は、今日が地区大会の当日で、集合時間に間に合わせなければならないのだという。言葉の合間にも、爪先が地面を小刻みに叩いている。走ることに慣れた体は、立ち止まっていることの方が苦手なようだった。

「電池、切れそうなんです。チームにも連絡取れなくて」

「それは焦りますね。とりあえず近道、案内しますよ」

「こっちです」

 航は裏の路地から迂回するルートで混雑を抜けた。遥の足取りは軽く、むしろ航たちの方が置いていかれそうになる場面もあった。走れる道になった途端、彼女の表情から強張りが少しずつ抜けていくのが、横顔からもわかった。競技場方向への近道の分岐点まで案内すると、彼女は足を止め、短く頭を下げる。

「ありがとうございました! おじさんたちも、気をつけてください」

 言うが早いか、もう振り返りもせず走り去っていった。ジャージの背中が朝日の中に小さくなっていく。その後ろ姿が角を曲がって消えるまで、あっという間だった。

「今日、何人助けるつもりなんですか、あなた」

「さあ、成り行きで」

「……『おじさん』呼ばわりされてましたけど、まだ三十代ですよね、僕たち」

「否定はしないほうがいいと思いますよ、こういう時は」


 迂回を終えて一息ついたところで、航は腕時計に目をやった。針は十時をとうに過ぎている。

「今日はここまでの遠回りで済むはずだったのに……」

 思わず呟いた声に、沢田が短く応じた。

「あんたの案内、地味に助かってる」

 照れ隠しなのか、「地味に」という一言だけがやけに強調されている。それでも視線はまっすぐこちらを向いていて、朝方のような値踏みする色はもうどこにもなかった。

(この人、たぶん褒め言葉に不慣れなタイプだな)

 航は内心でそう思いながら、口では「どうも」とだけ返しておいた。沢田は少し気まずそうに視線を逸らし、それきり黙って歩き続けた。


 三叉路を抜けた先、汐見エリアへの直進ルートは、さらに規制線と避難者で完全に塞がれていた。誘導員が「これより先、立入禁止」と繰り返し叫んでいる。規制線の向こうでは、消防車らしいサイレンの音が断続的に響いていた。

「……戻ろう。川を渡った方が早い」

 航が判断し、来た道を境川方面へ引き返すことを決める。スマホの電波はすでに完全に途絶えており、頼りにしていた渡し船の非公式時刻表は記憶頼みになっていた。運行しているかどうか、確かめる手段はどこにもない。

「確認できないまま進むんですか」

 沢田が不安を口にする。足を止めかけたその表情には、これまでとは違う種類の不安が浮かんでいた。

「まあ、行ってみないとわからないので」

 航はそう言って、迷いなく歩き出した。内心では、少しだけ賭けの割合が上がったことを自覚していた。振り返らずに歩を進める背中を、沢田がしばらく見つめてから、諦めたようについてくる足音が聞こえた。


 境川渡船の乗り場に着くと、そこには規制線と「運行中止」の張り紙があった。手書きの文字が雨に滲んだように歪んでいる。桟橋には人影がなく、朝方あれほど賑やかだった鳥の声すら聞こえない。周辺の裏道も瓦礫や避難する人々で塞がれている。木製の桟橋の板が一枚、根元から浮いているのが見えた。

 航は、初めて言葉を失った。それまでどんな状況でも軽口を叩いていた男が、急に無口になる。何も言わず立ち尽くす横顔を見て、沢田も余計な言葉をかけずにいた。二人分の足音が消え、川の水音だけがやけに大きく聞こえてくる。


 河川敷の土手に、航はへたり込んだ。膝を抱え、視線をどこにも定めずに呟く。

「……プリンも、もういいか」

 自分の口から出た言葉に、少し驚いた。今朝からずっと支えにしてきた小さな目標が、こんなにもあっさり手放せてしまうことに。

 沢田は何も言わなかった。ただ黙って、少し距離を置いて隣に座る。革靴のまま土手に腰を下ろした沢田の膝には、もう泥がついていた。励ましの言葉も、軽口も、なかった。それが今の航には、かえってありがたかった。

 二人の間に、しばらく沈黙が続いた。川の水音だけが、変わらず聞こえていた。遠くでまたサイレンが鳴り、それも次第に遠ざかっていく。

 どれくらいそうしていただろうか。ふと、頭の奥の方で何かがかすかに引っかかった。船頭との軽口、沢田に語った雑談——鉄橋、時刻表、渡れるかどうかもわからない裏道の断片が、脈絡なく浮かんでは消えていく。まだ形にはならない。ただ、完全に手詰まりというわけでもない気がする——その程度の、頼りない予感だった。

 航は膝の上に置いた手を、ゆっくりと握り直した。

 どれくらい黙って座っていただろうか。川の水音に紛れて、隣から小さな声がした。

「そういえばさっき、廃線がどうとか言ってましたよね」

 沢田は、特に何かを期待した口調ではなかった。ただ、沈黙が長すぎて、何か話さなければと思っただけのようだった。それでも、その一言が頭の奥でくすぶっていた断片に、するりと火をつけた。

 航は顔を上げた。膝の上に置いていた手のひらに、じわりと力が戻ってくる。

「……そうか」

 膝を抱えていた腕をほどき、勢いよく立ち上がる。土手の草が、足元でざっと音を立てた。

「あの鉄橋なら、まだ川を渡れる!」

「え?」

「旧貨物線の跡ですよ。渡船から見えたやつ。桁は古いですけど、僕が確認した限りじゃまだ渡れる強度は残ってるはずです。少なくとも先月歩いた時は」

「先月って……あなた、あんなところ普通に歩いてたんですか」

「エクストリーム出社に『普通』の基準を求められても困るんですけど」

(自分で言っといてなんだけど、こんな時にこの知識が役に立つとは思わなかったな)

 航は早口でまくし立てながら、もう歩き出していた。頭の中では、鉄橋までの最短ルート、渡り方、その先の道筋が、さっきまでの霧が晴れたようにはっきりと像を結んでいる。沢田はしばらく呆気に取られていたが、すぐに立ち上がって後を追った。膝についた泥を払う暇もなかった。

「本当に大丈夫なんですか、その橋」

「大丈夫かどうかは、行けばわかります」

「その理屈、さっきも聞きました」

「まあ、僕の理屈は大体そんな感じなので」

 軽口の応酬が戻ってきたことに、沢田はどこかほっとしたような顔をしていた。歩調も、来た時よりいくらか速くなっている。


 旧貨物線跡は、河川敷から少し外れた雑木林の先にあった。錆びついたレールの残骸が、雑草の間からところどころ顔を出している。鉄橋の入り口には申し訳程度の柵があったが、とうの昔に用をなさなくなっていた。柵の表面はすっかり赤茶けて、触れると指先に錆の粉がついた。

 鉄橋の下、川面までの距離は思ったより深い。橋桁の間から吹き上げてくる風が、ごうと低い音を立てて服の裾を揺らした。

「一枚ずつ、踏んで確かめながら進んでください。錆びてる箇所は避けて」

「言うのは簡単ですけどね……」

 沢田がぼやきながら後に続く。航が先に立ち、枕木の残った桁の上を慎重に進んだ。足元の隙間から、川面がずっと下に見える。踏み出すたびに、鉄の軋む音がかすかに響いた。

 半分ほど渡ったところで、革靴の底が濡れた鉄板の上で滑った。

「うわっ」

 体が傾いだ瞬間、航が振り返って腕を掴んだ。二人分の体重が一瞬、桁の上でぐらついたが、なんとか持ちこたえる。心臓が跳ねる音が、自分のものか沢田のものかわからないくらい近くに聞こえた。

 しばらくの間、二人ともその場から動けなかった。沢田の呼吸が、荒く小刻みに繰り返されている。航の方も、掴んだ腕を離すまでに数秒かかった。膝の裏が、意識してみると小さく震えている。

「大丈夫ですか」

「……すみません。助かりました」

「ほら、言ったでしょう。その靴じゃ厳しいって」

「今それ言います?」

 それでも航は手を離さず、そのまま沢田の腕を支えながら残りの桁を渡りきった。対岸に降り立った瞬間、二人はどちらからともなく短く息を吐いた。革靴とスニーカー、装備も歩き方もまるで違う二人が、同じ橋を渡りきったという事実だけが、そこにあった。

「……ありがとうございました。本当に」

 沢田の声には、これまでのどの言葉より素直な色が混じっていた。航は少し照れくさくなって、視線を鉄橋の先へ逸らした。


 鉄橋を渡ってからの道のりは、記憶よりも長く感じられた。それでも、汐見エリアの見慣れた建物が見えてきた時、航は思わず駆け出しそうになった。足の疲労も、時間の遅れも、その瞬間だけはどうでもよくなっていた。

 メビウステックの裏口にたどり着くと、警備員が驚いた顔で二人を迎え入れた。事情を話す気力もなく、航はそのまま社屋の中へ入り、まっすぐ給湯室へ向かった。廊下の照明はまだ半分しか点いておらず、非常用電源特有の低い唸りが天井の隅から聞こえている。空調も止まったままなのか、館内はやけにひんやりとしていて、外の喧騒とは切り離された静けさが逆に落ち着かなかった。

 冷蔵庫を開ける。プリンは、そこにあった。

 容器を手に取り、賞味期限の表示を確認する。今日の日付、ぎりぎりだ。スプーンを探す手がもどかしい。備え付けの引き出しから見つけたスプーンで蓋を開け、カラメルソースの小袋を破って中身にかけ、一口すくって口に運んだ。

「……」

 甘さが、朝からの長い長い道のりの疲労と一緒に喉の奥へ流れ落ちていく。誰かに見せるための儀式でもなければ、誰かに褒められるためのものでもない。それでも、この一口のために今日という日を全部使い切った実感が、じわりと胸に広がった。給湯室の窓から差し込む朝の光が、やけに眩しかった。

「それが、例のプリンですか」

 背後から沢田の声がした。振り返ると、彼も給湯室の入り口で肩の力を抜いていた。

「これのために、朝からずっと歩いてきたんですか」

「まあ、そういうことになりますね」

「……くだらない」

 沢田は呆れたように言ったが、その口調には、もう朝方のような冷たさはなかった。むしろ、少しだけ羨ましそうな響きが混じっていた。

「一口、どうですか」

「いや、結構です。自分のプリンでもないのに」

 そう言いながらも、沢田は容器の中を少し覗き込んでいた。


「お前、まさか、噂の……」

 声をかけてきたのは、見知った顔だった。同僚の尾崎だ。昨日のLINEで航をからかっていた張本人が、目を丸くして立っていた。

「なんの噂だよ」

「さっきSNSで話題になってた、裏道でお婆さんとか女子高生とか助けてた人がいるって話。誰かが動画上げてて……いや、まさかとは思ったけど、お前だろこれ」

 尾崎がスマホの画面を差し出す。電波が戻ったのか、粗い画質の動画には、河川敷で老婆に肩を貸す男二人の姿と、三叉路で女子高生に道を教える様子が、遠目から撮られて映り込んでいた。コメント欄には、状況の混乱の中で誰かが助けられたことへの驚きの声がいくつも並んでいる。

「今日はさすがに、お前の『無駄』に助けられたわ」

 尾崎はばつが悪そうに頭をかきながら、それでもはっきりとそう言った。昨日までの半笑いは、そこにはなかった。

「まあ、無駄かどうかは僕が決めることじゃないんで」

 航はそう返しながら、内心では少しだけくすぐったい気分になっていた。

「今度さ、その裏道とか、どうやって覚えたのか教えてくれよ」

「面倒くさいですよ、その話」

「別にいいって、暇な時でいいから」

 尾崎はそう言って、照れ隠しのように軽く肩を叩いてから、自分の席へと戻っていった。


 一段落したところで、沢田が改まった様子で航の前に立った。

「今日は本当に助かりました」

「こちらこそ、お疲れさまでした」

 沢田は少し照れくさそうに視線を逸らし、それから小さく笑った。

「また会う機会があれば……次は自分から遠回りしてみます」

「それはそれで、面倒なことになるかもしれませんよ」

「その時はその時です」

(半日一緒にいただけの人と、こんな別れ方をするとは思わなかったな)

 短くそれだけ言って、沢田は会社へ戻っていく背中を見せた。革靴の足音が、行きよりもいくらか軽く聞こえた。角を曲がる直前、彼は一度だけ振り返り、小さく手を上げた。航もそれに応えるように、片手を上げ返す。姿が完全に見えなくなってから、少しだけ名残惜しいような、こそばゆいような気分が残っていることに気づいた。


 翌朝、五時。川辺町の住宅街は、また昨日と同じように夜の続きの中にあった。

 街灯の白い光の輪だけが等間隔に浮かび、その他はすべて青黒い影に沈んでいる。航は玄関の鍵を閉め、吐く息の白さを目で追いながら、リュックの肩ベルトを締め直した。相変わらず鍵は軋んだままで、油を差す予定は今日も立てていない。頭の中では、今日のルートを反芻している。始発前のコミュニティバス、境川沿いのレンタサイクル、渡し船の始発時刻——順番も時間も、いつも通りの道筋だ。

 誰かに見せるための儀式ではない。それは今日も変わらない。見ているのは、まだ寝静まっている家々の窓と、たまに通り過ぎる新聞配達のバイクくらいのものだ。

 ただ、昨日までとほんの少しだけ違うことがあるとすれば——「無駄」と笑われてきたこの遠回りが、誰かの役に立つこともあるのだと、身をもって知ってしまったことだった。ほんの少しだけ、誇らしい気分だった。

(次はどのプリンにしようか)——そんなことを考えている時点で、大して変わっていないのかもしれない。それでも構わない、と航は思った。

 航は鼻歌交じりに、今日も遠回りのルートを検討しながら歩き出す。その後ろ姿を、街灯の光だけがそっと見送っていた。