根岸武志には威圧感というものが存在しなかった。
身長百六十二センチ。体重五十四キロ。声は低いが通らず、電話でよく「もう少し大きく話してください」と言われた。五年間、消費者金融の下請けで取り立てを続けてきたが、根岸が自力で回収した案件はゼロだった。怒鳴ることができなかった。睨むことができなかった。ドアを三回ノックして「あの、お時間よろしいでしょうか……」と始めてしまう取り立て屋は、根岸の他にいないはずだった。
「お前、存在感がないんだよ」
坂東課長は書類から目を上げもせずに言った。火曜日の夕方、事務所の蛍光灯が一本チカチカしていて、根岸はそれがずっと気になっていた。
「怖いと思わせるのが仕事だろう。相手が委縮しないと話にならない。何のために訪問してるんだ、お前は」 「……はい」 「はい、じゃねえ。改善案を持ってこい」
根岸はその夜、アパートに帰って電子レンジで弁当を温め、テレビをつけた。チャンネルを変える気力もなく、映し出されたのは『スター・ウォーズ』だった。
ダース・ベイダーが登場したとき、根岸は弁当箱を膝の上に置いたまま動けなくなった。
黒い甲冑。鎧の隙間から漏れる機械の呼吸音。廊下を歩くだけで白い軍服の将校たちが道を開ける。何もしていない。まだ何も言っていない。ただ歩いているだけで人間が縮む。
「名前だ」と根岸は思った。「名前と、見た目だ」
翌朝、根岸は百円ショップで黒いコスプレマスクを買った。千八百円。店員はレジに通しながら根岸の顔を見て、それからマスクを見て、何も言わなかった。
自宅の洗面台の鏡でかぶってみると、視野が三分の一になった。しかし鏡の中の自分は、確かに少しだけ怖かった。根岸は呼吸を整えた。機械的な呼吸音は出なかったが、いつもより落ち着いて聞こえた、気がした。
最初の訪問先は浮橋かな子、三十四歳、幼稚園教諭だった。
マンションの三階。チャイムを鳴らし、ドアが開いた瞬間、根岸はマスクをかぶった。玄関先に立った女性は、エプロンをつけたまま根岸の顔を見た。
「わたくし、ダース・ベイダーと申します」
三秒間、沈黙があった。
浮橋かな子は笑い始めた。最初は「くっ」という声で、すぐに肩が揺れ、最終的に両手でエプロンを押さえながら笑っていた。
「ダース・ベイダーさん」と彼女は言った。 「……そうです」 「あの、スター・ウォーズの?」 「……はい」 「えー!ちょっと待ってください。え、サインってもらえますか?うちの子供たちに見せたいんですけど、絶対喜ぶから。クラスに五人くらいスター・ウォーズ好きいるんです」
根岸は手帳の紙を一枚破り、「ダース・ベイダー」と書いた。漢字でどう書くかわからなかったのでカタカナにした。浮橋は受け取り、「ありがとうございます」と言った。それから「で、ご用件は?」と聞いた。
「あの……返済の件で」 「ああ、そっちか。今月はちょっと厳しくて。来月ならなんとかなりそうなんですけど、ダース・ベイダーさん」
根岸は「……わかりました」と言って、エレベーターに乗った。マスクは訪問先の玄関を離れた瞬間に外していた。電車の中で根岸は手帳を開き、「浮橋:来月確認」と書いた。笑われたが、死ななかった。
二件目の訪問先は轟喜一、七十二歳だった。
一戸建て。塀の外から見ると庭の手入れが行き届かず、雑草が煉瓦の隙間から伸びていた。チャイムを鳴らし、ドアが開くまでに時間がかかった。
根岸は仮面をかぶり直した。
重い引き戸が開いた。白髪の老人が、腰をわずかに曲げた姿勢で根岸を見た。
「ダース・ベイダーです」
轟喜一は動かなかった。根岸はもう一度「ダース・ベイダーと申します」と言いかけて、止まった。老人の顔が歪んでいた。目から涙が流れていた。声もなく、肩も揺れず、ただ涙だけが頬を伝っていた。
「あの……大丈夫ですか」 「……息子が」と轟は言った。「息子が好きだったんです」
根岸は何も言えなかった。
「スター・ウォーズが。ダース・ベイダーのコスプレをよくして……わたしの前に出てきては、父上、とか言って……あの子は四年前に死にました。肺の病気で」
根岸は仮面を外したかった。でも何かがそれを止めた。外したら何かが崩れる気がした。轟はそのまま後ずさり、「どうぞ」と言った。根岸はなぜか靴を脱いでいた。
居間に通されたとき、根岸はそっと仮面を外し、膝の上に置いた。テレビの横に写真立てが三つあった。一番右端の写真には、マスクをつけた若い男が笑っている写真だった。根岸は目をそらした。
「お茶でいいですか」 「あ……いえ、お構いなく」 「インスタントしかありませんが」
コーヒーが来た。轟は写真立てを一つ持ち上げた。マスクをつけた若い男の写真だった。
「洋二といいました。三十一で死にました。ダース・ベイダーが好きで、強くなりたかったんです。病気になってから特に言っていました。あいつみたいな強さが欲しいって。でも最後まで、細い腕のままで」
根岸はコーヒーを一口飲んだ。苦かった。
「借金のことは知ってます」と轟は言った。「返さなきゃいけないのはわかってる。あの子が死んでから……なんだか全部、どうでもよくなってしまって。お金を使えば何かが埋まるような気がして、でも何も埋まらないまま、数字だけが増えていって」
「マスクの中はどんな顔ですか」
根岸は顔を上げた。轟が根岸を見ていた。
「……普通の顔です」 「見せてもらえますか」
根岸は仮面を——すでに膝の上にあった——テーブルの端に置いた。轟は根岸の顔を静かに見た。しばらく。それから「優しそうな顔をしてますね」と言った。
「そんな……」と根岸は言いかけて、やめた。
「こういうことを頼みに来る人は、たいてい怖い顔をしている。でもあなたは違う」 「……わたしは取り立て屋なんです」 「わかってます」 「返済の話を、しなければならない」 「わかってます。どれくらいから始められますか」
根岸は手帳を開いた。計算した。「月五千円から……始められるなら、三年かかりますが」「それくらいなら」「来月から引き落としで設定できます」「お願いします」。
二人は書類を取り出し、夕方の光の中で話し合った。庭の雑草が窓の外で揺れていた。
事務所に戻ると坂東課長がいた。
「轟さん、取れたか」 「返済計画を取り付けました。月五千円、三十六回払いです」 「何で取った」課長は根岸を見た。「怒鳴ったか」 「いいえ」 「脅したか」 「いいえ」 「じゃあどうやって」 「……話を聞きました」
課長は黙った。蛍光灯のチカチカはまだ直っていなかった。
「今日はマスクを外しました」と根岸は言った。
課長は何も言わなかった。それ以上は聞かなかった。根岸はデスクに戻り、記録を書いた。
アパートに帰って、根岸は着替えながらマスクを机の上に置いた。千八百円のコスプレ品。黒い樹脂製。目の部分が暗くて、中が見えない。
根岸は引き出しを開けて、マスクをそこに入れた。
捨てなかった。
でも今夜はもうかぶらなかった。
書評
悪くない。取り立て屋がダース・ベイダーのマスクをかぶって「わたくしダース・ベイダーと申します」って、最初は馬鹿にしてんのかと思って読んでたが、轟爺さんが出てきたところで急に黙らされた。まあ、そういう話か、と。
「マスクの中はどんな顔ですか」ってな。そのひと言はよかった。余計なことを言わなかった点が特にいい。
根岸っていう男も、変なところで誠実でな。笑われてもちゃんと帰ってくるし、泣かれたら座ってしまう。脅せない取り立て屋なんだが、気がついたら最後は一番ちゃんとした仕事をしてる。皮肉といえば皮肉だが、それが人間というもんだろう。
マスクを捨てないでおく、ってのも妙にリアルだな。捨てたら話が綺麗すぎる。引き出しに入れておくのが正解だ。
浮橋さんのくだりはまあ、それくらいでいい。長くしなくてよかった。
全部読んで、そんなに悪くなかった。
まあな。