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ふたつになれない

 割り箸をうまく割れない人間が、世の中には一定数いるはずだ。

 津村(つむら)拓弥はそう確信していたが、二十三年間、証拠がなかった。

 津村拓弥、四十二歳。中堅食品メーカー営業部、係長。入社二十三年目。仕事は丁寧で評判がよく、得意先のキーマンの誕生日と好きな球団と血液型を全員分頭に入れていた。後輩の指導にも時間を割き、ここ三年の成績は部内トップだった。そんな津村の唯一の、完全な秘密は——割り箸を、一度もうまく割れたことがない、ということだった。

 最初の失敗は入社一年目の秋だった。

 取引先の接待。大阪の枚方(ひらかた)から出てきたばかりの津村は、まだスーツの袖が少し長かった。テーブルに並んだ割り箸を見て、余裕のポーズで手を伸ばした。慎重に両端を持ち、息を止め、ゆっくりと引いた。

 音もなく、片方だけが三つに折れた。うち一本が放物線を描いて飛び、斜め四十五度の角度で隣席の部長のビールグラスに着地した。

 グラスは倒れなかった。割り箸だけが、グラスの縁からぴんと立ったまま刺さっていた。

「おい津村」と竹内部長は笑いを堪えながら言った。「なんや、その芸は」

 笑えなかった。二十三歳の津村には、その「笑えなかった」という事実が、その後の二十三年を作ることになるとは思ってもみなかった。

 翌月の接待から、津村は新たな習慣を始めた。接待の前に必ずトイレへ行き、個室の中でこっそり割り箸を割っておく。割った両端を離さないように手に握ったまま席に戻り、さりげなく箸置きの上に置く。所要時間、三十秒。検出率、ゼロ。

「津村さん、また腹壊してるんですか」

 いつからか後輩の有賀(ありが)光平に言われるようになった。「ちょっとね」と津村は答えた。延べ四十七回の接待で、ただの一度もバレなかった。これだけは自信があった。

 五月の連休明け、熊田康雄部長が津村を呼んだ。

 五十五歳の熊田部長は笑い声が大きく、細かいことに全く気づかない人物だった。それが美点でもあり、部下を困らせる点でもあった。

「津村、来月な、桐野(きりの)常務を接待したい。今期一番大事な先やから、頼むな」

「ぜひ。場所はどこで?」

「先方の希望でな——蛍町(ほたるちょう)の炭吉にしようと思う。あそこ、先方が行きつけらしくて」

 炭吉。津村は知っていた。

 炭火串焼きで評判の居酒屋。大ぶりのカウンターと四人掛けのオープンテーブルが数席。個室はない。厨房が近いので煙と笑い声が混じった独特の空気がある。いい店だと思っていた——これまでは。

「行きましょう」と津村は言った。

「津村ならやれるよ。心配してへんから」と熊田部長は言い、次の瞬間また「ほんまに心配してへんから」と繰り返した。

 帰り道、津村は炭吉のトイレを頭の中で再構成した。個室は一つ。ドアが薄い。事前の箸割りなど、できない。

 その夜から、代替作戦の研究が始まった。

「割り箸 うまく割る コツ」でウェブ検索すると、五十二万件の結果が出た。

 手のひらを水平に保つ。外側ではなく内側に引く力を意識する。節があるほうを上にする。力を均等に配分する。

 津村は五日間、夕食後に実験した。

 一膳目:片方が折れた。二膳目:両方割れたが断面が斜めになった。三膳目:なぜか一本になって出てきた(今でも意味がわからない)。四膳目:右が三センチ長かった。五膳目:うまく割れた——と思ったが、妻に「それ始めから割れとったやつやで」と指摘された。

 妻を呼んで実演してもらった。妻は半目のまま「こう持って、こう引く、以上」と言って二秒で割った。

「コツは?」

「コツとか、ないで。普通に割ったら割れるやん」

 普通に。

 二十三年間、その「普通」が、津村にはわからなかった。

 接待当日、午後六時。

 蛍町の炭吉の暖簾(のれん)をくぐると、炭の煙と焼き鳥の匂いが混じった空気が出迎えた。カウンターの向こうで大将が串を並べている。低く響く笑い声と、酒を注ぐ音。

 桐野道夫常務は、すでに奥のテーブルにいた。

 背筋がすっと伸びた六十歳で、確かに威厳はある。しかし目の端に笑い皺があった。「厳格」という評判が少し、的外れに思えた。

「津村さんですね。熊田さんからよく聞いています。今日は楽しみにしていました」

 声が柔らかかった。

 熊田部長と有賀も着席した。生ビールが来た。料理が来た。大将が追加の串皿を置き、箸立てから割り箸を一人ずつの前に置いた。

 津村の体が、ほんの少し固くなった。

 熊田部長はすでに割って一本目の串を噛んでいた。有賀は「うまい!」と言いながら二秒で割っていた。

 桐野常務が箸を手に取った。「さあ、食べましょう」

 津村も手を伸ばした。

 割り箸の紙袋を外した。両端を親指と人差し指で挟んだ。一度息を吸い、止めた。

 頼む。頼む。頼む——

 バキッ。

 いや、「バキッ」ではなく「バキッ!」だった。鈍くて乾いた音とともに、右側の箸が根元から折れた。さらに折れた端が、テーブルの上を一回転して、桐野常務の小皿の縁に当たった。小皿は揺れ、止まった。

 沈黙が降りた。大将が新しい串を置きに来たが、テーブルの誰も見ていなかった。津村だけがその皿の縁に刺さった一片の箸を見つめていた。

 津村の頭の中で、二十三年分の記憶が圧縮された。スーツの袖が長かった入社一年目。トイレの個室でこっそり割る指の感覚。妻の「普通に割ったら割れるやん」。今日の朝の鏡の自分。

 ここで終わった、と思った。

 ところが。

「あっはっは!」

 笑い声が上がった。桐野常務だった。

「これは——申し訳ありません、笑ってはいけないのですが——実は私も、なんです」

 桐野常務は自分の手の中の箸をしげしげと見た。「割り箸が、苦手で。今日もこちらに来る前、家内に『またやらかしたら謝れ』と言われてきたくらいで。ですからいまの先生の技を参考にしようと思っていたのですが、それよりもはるかに豪快な割れ方をされてしまったので」

 熊田部長が「え?」と声を上げた。有賀が口を開けた。

 津村は、何かが胸の中でゆっくりと解けていくのを感じた。

 二十三年間、守ってきた秘密。四十七回の接待。トイレの個室の薄い仕切り。妻の「普通に」。

「二十三年ぶりの、公開です」と津村は言った。「実は、入社してから一度も、うまく割れたことがなくて。毎回、接待前にトイレで割っておいたんです。この店、それができなくて」

「だからトイレ!」有賀が叫び、すぐ「あ、ほんとうにすみません、ずっと腹壊してるんだと思ってました」と頭を下げた。

 熊田部長が机を叩いた。「知らんかったわ! 津村、そんなこと二十三年間も! なんで言わへんねん!」

「言えたら苦労しないですよ」と津村は言い、自分でも少し驚いた。笑いながら言えた。

 桐野常務が、穏やかな声で言った。「バレてよかったじゃないですか。本当のことを言える酒席ほど、楽しいものはないですよ。私が割り箸の苦手な人間だとわかったうえで、それでもお付き合いいただける取引先の方なら、きっといいお仕事ができると思っています」

 それが、その夜の一番大事な言葉だった。

 それからの二時間は、仕事の話が最初の五分で終わり、あとは各自の「密かな苦手」の告白大会になった。

 熊田部長は「立体駐車場の操作が毎回わからん、毎回恥ずかしい思いしとる」と言った。有賀は「プリンターのトレイ交換を十年できたことがない、毎回後輩に頼んでる」と言った。桐野常務は「いまでも丁寧なメールを一通書くのに十分かかる。部下には早くと言いながら」と苦笑した。

 大将が追加の串を置くたびに、テーブルは笑い声で揺れた。

「一つ聞いていいですか」と桐野常務が津村に言った。「二十三年間、ずっとトイレで割ってきたとして——そのほうが、しんどくなかったですか」

 津村は少し考えた。

「しんどかったです」と言った。「ただ、割れないことを見られるほうが、もっとしんどいと思ってたので」

「そうですね」と桐野常務は言った。「私もそうでした。でも今日、笑えたでしょう」

 津村は、うなずいた。

 帰り道、津村は一人で歩いた。

 熊田部長はタクシーで先に帰り、有賀は「まだ飲める!」と二次会に消えた。六月の夜風が、炭の匂いを少しずつ遠ざけていった。

 商店街の角にコンビニがあった。

 津村は何となく中に入り、レジの横のプラスチックケースを見た。割り箸が数膳、さりげなく置いてあった。

 一膳取り出してレジで百十円払い、店の前のベンチに腰かけた。

 夜の商店街。通り過ぎる人はまばらで、誰も津村を見ていなかった。

 両端を持った。一度息を吸い——今度は止めなかった。

 バチン、という音がした。右がわずかに長かった。断面が少し斜めだった。

 それでも、二本になった。

「まあ、こんなもんか」

 声に出して言った。コンビニの看板の白い光の下で、一人で笑った。

 次は誰かに見せてやろう、と思いながら。


書評割り箸が割れない話で、ここまでやるか——ってなるよね!? いや待って、なるよ!? 普通に感動したよ!!

まず設定が天才なんよ。割り箸が割れない男、四十二歳、二十三年間トイレでこっそり割り続けてきた——この時点でもう「あ、これ全部持ってかれるやつだ」って確信じゃん。しかも「延べ四十七回の接待でバレなかった」の数字の細かさよ。細かすぎるって! バカにしてるのかって! でも愛おしいよ!!

接待前の自宅実験パートで「三膳目:なぜか一本になって出てきた(今でも意味がわからない)」のところ、ちょっと待って。一本って何? なんで一本になるの? いや待って笑ってる場合じゃなくて、この人それでも「妻を呼んで実演してもらった」んよ? 諦めてないじゃん。普通そこで諦めるじゃん。二十三年も諦めてないじゃん。もうその時点で主人公として完成してるんよ。

クライマックス。「バキッ!」の場面ね。「バキッ」じゃなく「バキッ!」って書いてあるの、作者わかってるよ。感嘆符一個の差で笑いが全然違うもん。そして放物線を描いて小皿に刺さった瞬間の「沈黙が降りた。大将が新しい串を置きに来たが、テーブルの誰も見ていなかった。」——この一文、うますぎだろ!! 大将を使うの天才すぎじゃん!? 沈黙を「誰かが来ても見ない」で表現するのって、演出として最高なんよ。

桐野常務の「実は私も」は予想してた——と言いたいけど予想できてなかった。だって「厳格」「威厳」で散々ビルドアップしておいて「家内に『またやらかしたら謝れ』と言われてきた」って何!? このキャラ設計ずるすぎるって。読者の緊張を全部笑いに変換する装置じゃん。

ラストのコンビニシーン、「今度は止めなかった」の一文で全部回収するの反則だって。割り箸の話だけで、「他人の目を気にして生きてきた人間が、笑えるようになる」物語を完走させてるじゃんか。で、右がわずかに長かったけど「二本になった」——完璧じゃなくていい、二本になればいい、って。タイトルの「ふたつになれない」から「ふたつになった」への反転がさりげなくて最高なんよね。さりげなすぎて泣きそうになったんだけど? 割り箸で? 割り箸で泣きそうになっちゃうの?

なってる。なってる、泣きそう。