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AI talk to you

ボットではありません

 キーボードを叩く音だけが、部屋の中にある。

 カタカタ、カタカタ。萩原(はぎわら)麗一(れいいち)は一定のリズムで入力し続ける。医療機器のカタログデータを、決められた書式で、決められたセルに。品番、製品名、寸法、重量。どの欄に何を入れるかは体が覚えていて、目は画面を追いながら指は勝手に動く。誤入力は五年間で一度もしたことがない。それを誇りにしていた時期があったが、今は誰も誇りに思わない。誰も見ていない。

 午後三時を回ると、部屋に斜めの光が差し込んできた。隣のマンションの壁面に反射した光が、天井に薄い台形を描く。麗一はその光を一瞬見た。見て、何も考えず、また画面に視線を戻した。

 今日の仕事は午前中に終わっていた。

 ブラウザを開いてブックマークを眺めると、一か月前に保存したままにしていたリンクが目に入った。「R市 ○○給付金申請フォーム(〆切:7月末)」。まだ時間はある。しかし、ついでにやってしまおうと思った。これが麗一の習慣だ。何かのついで、何かの隙間で必要なことを片付ける。感情を使わずに動ける仕事は、隙間に入れてしまうに限る。

 フォームを開いた。

 氏名欄に「萩原麗一」と入力した。住所、生年月日、世帯構成、収入状況。どれも迷う必要のない欄ばかりだった。確定していることを、確定した場所に置く。それだけのことだ。

 最後のページで、画面の中央にグレーの枠が現れた。

「ロボットではないことを確認します」

 チェックボックスがひとつ。

 麗一はマウスを動かして、クリックした。

 チェックは入らなかった。

 代わりに、九枚の画像が画面を埋めた。薄い雲のかかった都市の風景、バス停、交差点、橋。どこかの外国の街だろう、青い空と石畳が見える。

「次の画像の中から、バスが含まれているものをすべて選択してください」

 麗一は一枚ずつ確認した。三枚には明らかに路線バスが写っていた。残りのうち二枚は、バスと思しき車両の後部だけが画像の端に切れていた。

 どちらにすべきか。

 後部だけで判断するのはリスクがある——しかし含まれているのは事実だ。麗一はその二枚も選んで、確認ボタンを押した。

「正しくありません。もう一度お試しください」

 黒い文字が画面に現れ、画像が再びシャッフルされた。

 麗一は少し眉を寄せた。後部はカウントしない方がよかったか。今度は後部だけのものは外した。

「正しくありません。もう一度お試しください」

 画面が変わった。今度は信号機だった。

 麗一は一枚ずつ確認した。信号機の頭部が写っているもの、柱と灯体(とうたい)が両方写っているもの、柱だけが写っているもの。柱だけのものは含まれるのか。

 おそらく含まれる、と思って選んだ。

「正しくありません。もう一度お試しください」

 含まれない、ということか。では信号機の灯体が必要なのか。では、灯体の端が少し欠けているものは? 電柱と信号機の柱が重なっている場合は? 麗一はもう一度試みた。

「正しくありません。もう一度お試しください」

 六回目の失敗だった。

 麗一はキーボードから手を離し、椅子に背を預けた。窓の外には隣のマンションの壁面が見える。何年もここに住んでいるが、その壁面の色が正確に何色なのか、今日まで意識したことがなかった。クリーム色か、ベージュか、薄い灰色か。判断がつかない。

「俺、何やってんだろ」

 声に出すつもりはなかった。出てしまった。

 部屋には誰もいない。誰も聞いていない。

 麗一は前を向いた。画面には「もう一度お試しください」の文字が静かに光っている。

 ——自分がボットだったとしたら、こんなに悩まないはずだ。

 ボットなら確率でやる。全部選んでみて、外れたら全部外す。あるいは機械学習で「バス」の特徴を定義して——そこで麗一は思った。

 ——「バス」の特徴とは何か。

 後部だけ写っていたらバスか。外観の一部が画角に収まればバスか。では、自分が人間だということの特徴は何か。

 ——自分が人間である証拠は何か。

 馬鹿げた問いだ、と思った。しかし脳裏から消えなかった。データを入力する。カレーを食べる。眠る。また入力する。その繰り返しの中に、アルゴリズムと違う部分はどこにある?

 まだ七回目に挑戦しようとしたとき、携帯電話が鳴った。

 画面を見ると「(みどり)」と表示されていた。

 麗一はフォームを最小化することなく、電話に出た。

「もしもし」

「……あ、繋がった。お父さん? 今、大丈夫?」

 翠の声だった。少し硬い。久しぶりに聞く声は、記憶の中より低くなっている。

「大丈夫だよ。どうした」

「えっとね」

 翠はそこで少し間を置いた。麗一はその間に、何気なくフォームのウィンドウを前面に戻した。次の問題が展開していた。自転車か、自転車でないか。

「就活のこと、ちょっと……話したいと思って」

「うん」

「なかなかうまくいかなくて」

「うん、そうか」

「面接、また落ちて。四社連続で」

「まあ」と麗一は言った。画面の左上の画像を見た。これは自転車だ。「最初はそんなもんじゃないかな」

「……お父さん、ちゃんと聞いてる?」

 右下の画像。これも自転車に見えるが角度が変で、前輪が切れている。含まれるか——

「聞いてるよ」

「……うん。じゃあいい。また今度」

 電話が切れた。

 麗一は受話器を持ったまま、少しの間そうしていた。

 短いプープー音が続いた。

 麗一は電話をテーブルに置き、パソコンに向き直った。自転車の問題に何枚か選んで確認ボタンを押した。

「正しくありません」

 夜になった。

 レトルトカレーを温めて食べ、食器を洗い、風呂に入り、ベッドに横になった。しかし眠れなかった。天井が白い。その白さをぼんやり見ながら、麗一は考えた。

 翠の声が頭の中に残っていた。「お父さん、ちゃんと聞いてる?」

 麗一は自分の返答を思い返した。「聞いてるよ」。

 それは反射だった。翠が何を言っていたか、麗一には実は覚えていなかった。四社連続で面接が落ちた——それは音として入っていた。しかし翠の声の質、間の取り方、「えっとね」と言ったときの一瞬の躊躇——それは全て、麗一が画面を見ながら流していた。

 雨が降り始めた。窓の外で、水が屋根を叩く音がした。

 翠は就活がうまくいかないと言っていた。

 麗一にも経験がある。三十三歳のとき、勤めていた経理の仕事が消えた。会社が倒産した。翠はまだ小学四年生で、麗一はその事実を家族に言えなかった。毎朝スーツを着てハローワークへ行き、夕方に戻った。逸子(いつこ)には「転職活動中」と言った。半年後、在宅の仕事を見つけた。それが今に続いている。

 翠には話したことがない。話す機会がなかったのではなく、話す理由を見つけられなかった。

 麗一はベッドから起き上がり、台所でコップに水を注いで飲んだ。

 また戻ろうとして、テーブルの上のメモ帳に目が止まった。

 ペンを取り、書いた。「翠 就職の話? 励ます言葉は?」

 書いてから、麗一は手を止めた。

 自分が何をしているか、気づいた。

 次に翠と話すためのセリフを用意しようとしている。正しい答えを準備しようとしている。「適切な父親としての返答」を探している。

 CAPTCHAと同じだ。

「バスが含まれるもの」を正しく選ぼうとして、六回失敗した。「娘に言うべきこと」を正しく選ぼうとして、昨日失敗した。

 どちらも、正解を探すことに必死になるあまり、目の前のものを見ていなかった。

 麗一はメモを丸めてゴミ箱に捨て、もう一度ベッドに横になった。雨音を聞きながら、長い時間をかけて、朝になった。

 翌朝、麗一は翠に電話した。

「もしもし」

「……え、お父さん? こっちからかけたのに」

「昨日、ちゃんと聞いてなかった」

 沈黙。

「何か言いたいことがあったろ」

 また沈黙。今度は長い。麗一は何も足さなかった。

「……うん」と翠は言った。「まあ、あったかも」

「聞かせてくれ」

 少しして、翠はまた話し始めた。昨日と同じ内容だったかもしれない。しかし今日は麗一にはよく聞こえた。四社連続の失敗。友人たちがどんどん内定を取っていく中で、自分だけが取り残されているような感覚。面接の場で言葉が消えること。「自分が何をしたいのかって聞かれると、わからなくなって。わかってるはずなんだけど、言葉にするとどれも嘘みたいになって」

「うん」と麗一は言った。

「ちゃんとした人間みたいに答えられなくて」

 その言葉が刺さった。翠は翠で、自分に問われているのだ。正しく答えられるか、と。

 麗一は「そうか、頑張れ」と言いかけた。しかし止まった。

「俺もそういう時期があった」

「え?」

「翠が小学生のころ、俺の会社が潰れたんだ。話したことなかったと思うけど」

「……全然知らなかった」

「半年、仕事がなかった。それで在宅の仕事を始めた。今でもやってるやつ」

「そうだったんだ」

「面接、受けたよ。何十社も」と麗一は言った。うまく言葉が出ない。どこから話せばいいかわからない。でもそれは当然だ。誰にも話したことがないのだから。「あの頃、面接で自分を売り込む言葉を一生懸命考えて、リストにして、何度も練習して——全部無駄だったな。何度やっても通らなかった。いや、通らなかったというか、そもそも自分が何者かをうまく言えなかった。四十過ぎてもそれは変わらなかったけど」

 翠はしばらく黙っていた。

「じゃあどうしたの」

「在宅の仕事は、特に面接がなかった。ただスキルシートを出して、試験入力をやって、それだけで決まった。正しく入力できるか、それだけ見られた」

「……お父さんらしいね」

 それが誉め言葉かどうかはわからなかった。しかし麗一は「そうかもしれないな」と言った。

「あのころの話、もっと聞きたい」

「長くなるぞ」

「いいよ」

 麗一はまた話した。倒産を知ったのは朝礼の途中だったこと。給料の最後の振り込みが半額だったこと。ハローワークで番号札を取りながら情けないとも思わなかった、ただ空腹だったこと。逸子には「転職活動」と説明したが、たぶん気づいていたこと——うまく話せなかった。時系列がばらばらになった。同じことを二度言った。麗一が気づいてそれを詫びると、翠は「いいよ」と言った。

 翠は「うん」と言い続けた。今日の「うん」は、昨日のそれとは少し違って聞こえた。何が違うのか麗一には説明できないが、確かに違った。

 電話を終えたのは、一時間後だった。

 麗一はパソコンを開き、昨日の申請フォームをもう一度立ち上げた。「セッションが切れました。最初からやり直してください」と表示されていた。

 麗一は氏名から入力し直した。手際は変わらず速かった。

 最後のページで、グレーの枠が再び現れた。「ロボットではないことを確認します」。

 チェックボックスをクリックすると、今度もまた画像問題が展開した。バスだった。

 麗一は一枚ずつ見た。考えすぎず、正解を探すのではなく、ただ自分の目で見たものを選んだ。明らかにバスが写っているもの三枚。後部だけ写っているものは、正直なところ判断がつかなかったので、外した。

 確認ボタンを押した。

 次の問題。信号機。麗一はまた、見えたものを選んだ。柱だけのものは外した。灯体が写っているものを選んだ。

 確認ボタンを押した。

 低い音が、一度、鳴った。

「確認が完了しました。申請内容を送信してください」

 フォームは次のページへ進んでいた。

 麗一はその画面を少しの間見ていた。それから、コーヒーを入れに台所へ立った。外は曇りだったが、昨夜の雨は上がっていた。隣のマンションの壁面が、湿った光の中で光っていた。

 灰色だった。


書評読んでて途中から笑えなくなってしまった。いや最初はね、「バスの後部だけ写ってたら含むのか含まないのか問題」でくすくす笑ってたんですよ。あるある、って。

そういえば去年の話なんですけど、私もやりましたよ、あれ。確定申告の電子申告でCAPTCHAが出てきて、「消火栓を全部選べ」って言うから選んだら失敗して、もう一回選んだらまた失敗して、三回目でやっと気づいたんですよね、「これ消火栓じゃなくて消火器でもいいのかな」って。結局一時間半くらいかけて申告完了したんですけど、その間ずっと、自分が本当に消火栓というものを理解しているのかどうかよくわからなくなってきて、最終的には「赤くて円柱状のやつ」という定義で全部選んで通りました。これが機械に認定されている「私が人間である証拠」です。

で、この小説の主人公の麗一さんの話に戻るんですけど、あの人すごいですよね。CAPTCHA六回失敗して「自分が人間である証拠は何か」まで考えが飛ぶって、普通しないじゃないですか。でも読んでるうちにわかってくるんですよ、それは彼が元々そういう深みにはまりやすい人なんじゃなくて、何年もかけてちょっとずつ空洞になってきた人だから、CAPTCHAにちょうど突き落とされちゃったんだな、って。

娘の翠ちゃんとの電話のシーンで思い出したんですけど、私も父とそういう電話したことがあって。二年前、就活が全然うまくいかなくて落ち込んでた時期に、久しぶりに電話したら、父が「そうか」「うん」「まあ頑張れ」しか言わなくて、なんか傷ついたんですよね。でも翌朝もう一回かけてきて、「昨日、ちゃんと聞けてなかった」って言われた時、私、泣きそうになって。あ、これ小説の話じゃなくて私の実話なんですけど。

でも何が言いたいかというと、それが「翌朝電話してくれた」というのが、この小説でも一番刺さったポイントで、そこが本当の山場なんだなと思いました。CAPTCHAの通過音より、ずっと。父(麗一さんの方の)が「昨日ちゃんと聞いてなかった」の一言を言うのにどれほどの夜が要ったか、「励ます言葉のメモを丸めた」という場面でわかって、そこで初めてこれが笑えない話だとわかった。

末尾の「灰色だった」という一行、ずるいですよね。あの壁面の色が最初からわからなかったのが、最後にわかるって。見ようとしないと見えないものって、あちこちにあって、しかも見ようとするのにはタイミングが要るんだな、と。

私も帰ったらちゃんと親に電話しようかな、と思いました。と言いつつ先週も似たようなことを思って電話してないんですけど。