翠雨の季節
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一
吉備の里から一日半、翼をひたすら動かし続けると、山が急に深くなる場所がある。霧が谷に溜まり、木々の梢が雲の端とほとんど区別がつかなくなる。その奥に、霧重ねという小さな集落がある。
玄羽は、その集落を上から見下ろしながら、文を一通、足に括りつけたまま空気の渦に乗っていた。
桃太郎さまの命令は、このひと月で3回目だった。先月は東の大社、先先月は海辺の港町。今度は山の奥の霧重ね。「急ぎの文を届けよ」と言われれば、玄羽は飛ぶ。それ以外に、自分の意味を知らなかった。
届けた相手の顔が、思い出せなかった。感謝されたか、無視されたか——それも定かでない。文は渡した。それで次の使命が来る。1回目の空も二回目の空も同じ青さで、風は同じ向きに吹いた。風景を切り取るはずの目が、最近は何も切り取らないまま通過するようになっていた。
集落はひっそりと静まり返っていた。屋根が崩れた家が二軒、雑草に飲まれかけている畑が一区画。煙が上がっているのは、斜面の中腹にある一軒だけだった。
玄羽はそこへ降りた。
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二
庭に老人がいた。縁側に腰をかけ、膝に両手を乗せ、ただ空を眺めていた。玄羽が柿の木の枝に止まると、老人はゆっくりと顔を向けた。左目が白く濁っているため、顔を少し斜めに傾けた。
「おう、翠色の鳥か」
老人はそれだけ言って、また空に目を戻した。
玄羽は足の文を見た。「廣重どのへ」と書いてある。この老人がそうだろうと思い、木から降りようとしたとき、老人が独り言のように言った。
「字は読めん。生まれてこの方、読んだためしがない」
玄羽は止まった。文を届けた相手が読めなければ、文は届いたことにならないのか。それとも、手渡したその瞬間で使命は果たされたのか。
考えながら老人を観察した。顔の皺が深い。手の節が目立つ。咳を一度して、口元を袖で押さえた。熱があるかもしれない。
「まあ、おいで」
老人は縁側を叩いた。雉が木に止まったまま動かないのを見て、今度は笑った。乾いた、引っかかるような笑い声だった。
「来いと言っているんじゃ。そこにおれ、と言うておる」
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三
文をどうするか決めかねたまま、玄羽は庭の石の上に降りた。これ以上近づくと、届けるべきものを届けないまま居座ることになる。そう思ったが、足はそこより前に進まなかった。
老人——廣重は、しばらく玄羽を眺め、それからまた空に目を戻した。
「お前さんは、何者かに言われてここへ来たんかな。それとも、自分の気持ちで来たんかな」
答える声が、玄羽にはない。ただ、老人の目が、また自分に向いたとき、玄羽は視線を逸らさなかった。
「どっちでもかまわん。いてくれ」
廣重はそう言って、立ち上がり、家の中へ入っていった。しばらくして、干した魚の欠片を皿に乗せて戻ってきた。縁側の端に置き、「食べるかい」と言った。
玄羽は近づき、食べた。
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四
翌朝、帰ろうとした。
だが、山の稜線が黒く盛り上がり、午前のうちから空が閉まった。昼を過ぎた頃に雨が来て、夕方には嵐になった。木の根元に身を寄せていると、廣重が「軒下においで」と呼んだ。
玄羽は軒下に入った。
嵐の中、家の中から幼い声がした。「おじいちゃん、あの鳥まだおる」。廣重が「おる」と答えた。それだけだった。
夜、雨が小やみになったとき、苔子という名の女の子が縁側に顔を出した。膝に擦り傷があり、黒い瞳で玄羽を見ると、何も怖がらずに近づいてきた。
「あんた、鳥やのに飛ばへんの」
玄羽は女の子を見返した。
「飛べるのに、飛ばへんの」
玄羽はゆっくりと左翼を広げ、傷のある羽根を見せた。女の子は「あ、痛いんか」と言い、それから「でも飛べるやろ」と言い直した。
そうだ。飛べる。飛べるのに、飛ばないでいる。
その事実を、玄羽は初めて意識した。
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五
三日目の夕暮れ、廣重は縁側に座って、海の話をした。玄羽は石の上で聞いていた。
「わしはな、もともと海の者でな。嶋ノ浦という、鬼ヶ島に近いところで漁をしとった。もう三十年以上前の話じゃ」
廣重は空の一点を見ながら言った。声に抑揚がなく、話しているのか独り言なのか、わからないような話し方だった。
「鬼がな、来るんじゃ。年に一度か二度。網を破り、魚を奪い、抵抗する者には手を上げた。わしの女房は、その夜に亡くなった。息子の廣次もその翌年に。わしと苔子だけが残った」
廣重は膝の節ばった手を見た。
「鬼退治があってな、桃太郎とかいう若者が来て、鬼を片付けた。村人は喜んだ。感謝もした。わしも、感謝した。心から、そう思う」
少し間が空いた。
「ただな、それでも女房は帰ってこなかった。息子も帰ってこなかった。助かったことと、失ったことは、別の話じゃ。そういうことを、誰かに言えたことがなくてな。言っても仕方がないと思っていたから」
玄羽は廣重の横顔を見た。
「あの雉も、ようやったのう、と思うておる」
玄羽の羽根が一瞬、かたまった。
「鬼退治に雉が加わったという話を聞いとった。大した鳥じゃと思うた。だがな、その雉が今どうしておるかなど、誰も話さんわな。英雄の話には英雄が出てくるだけで、お供の話は出てこんもの」
廣重はそこで玄羽を見た。斜めに傾けた、濁った左目と、澄んだ右目で。
「お前さんは、ただの野鳥かな。それともわしが知らんだけで、偉い鳥かな」
玄羽は動かなかった。
「どちらでもかまわん。いてくれ」
廣重はまた空を見た。
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六
五日目の夜、廣重の熱が上がった。
苔子が「おじいちゃんが起きられん」と縁側から呼んだ。玄羽は草の匂いを嗅いでいた。自分が知っている薬草がある場所と、ここからの距離を測った。飛べば半刻もかからない。
だが廣重は、苔子が「薬草を取りに行ってもらおうか」と訊いたとき、「もうよい」と言った。
「よいとはなんじゃ」と苔子が言った。「よいわけがない」
「十分生きた」
「じゃあ、まだ生きろ」
「……お前は手厳しいな」
「おじいちゃんが手厳しく育てたんや」
廣重は笑った。それから咳をした。苔子が背中を叩いた。玄羽は縁側の端に、羽根を少し膨らませて止まっていた。寒い夜には羽根を膨らませて温度を保つ。しかし今は、ただそこにいることしかできなかった。
「翠色の鳥よ」
廣重がふと言った。
「名前はなんというんじゃ」
玄羽は廣重を見た。廣重は横になったまま、天井を見ている。
「答えてくれんか。わしが聞きたいんじゃ」
答えたかった。玄羽、と言いたかった。あなたの話を聞いていた。鬼退治から帰った雉は、あなたが思うより多くのことを抱えていた、と言いたかった。
だが、声は出なかった。どんな言葉も、人には届かない。
沈黙が続いた。苔子が「この子、名前があるかどうかわからんやん」と言った。「そうじゃな」と廣重が言った。
「じゃあ、翠色にしよ。翠(みどり)ちゃん」
廣重は小さく笑った。「よい名じゃ」
玄羽は、廣重が眠りに落ちるまで、縁側から動かなかった。
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七
夜明けが来た。
廣重は目を覚まさなかった。
苔子は廣重の手を両手で包んで、しばらく黙っていた。それから顔を上げ、縁側の玄羽を見た。
「おじいちゃんのそばにいてくれてありがとう」
玄羽は何もできなかった。嵐を防げもしなかった。薬草を取りに行けもしなかった。名前すら教えられなかった。
なのに、苔子は礼を言った。
玄羽はゆっくりと頷くように頭を下げた。
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八
文のことを思い出したのは、日が高くなってからだった。
足から括りを解き、縁側に置いた。宛名を確認しようとして——字は読めない。だが人の言葉の気配を、この長い年月に学んでいた。苔子が文を広げ、しばらく眺めて言った。
「廣次さまへ、て書いてあるな」
廣次。廣重が語った名前だった。息子の廣次。三年前に疫病で亡くなったと、廣重自身が話していた。
「お父さん、もう死んどるもんな。読めなかったな」
苔子はしばらく文を持ったまま立っていた。それから空を見て、言った。
「でも、お父さんのこと、お空から見てたおじいちゃんには届いたかもね。字じゃなくて、気持ちが」
玄羽は文を見た。届けようとして届かなかった文。宛名の人間はすでになく、読む者は文字を解さず、それでも文は一日半の空を越えてここへ来た。
使命は果たせなかったのか。それとも、果たせた形が変わっただけなのか。
玄羽は文を庭の石の上に置いた。
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九
雨が来る前の、あの重い匂いが空に漂い始めていた。梅雨の始まりだと、玄羽には分かった。
吉備の里へ帰るなら、今日がいい。もう一日経てば、雨の中を飛ぶことになる。
玄羽は空を見た。里の方角を確認した。
それから、逆方向を見た。
山の向こう。さらにその先。行ったことのない場所。行くよう命じられたわけでもなく、帰りを待つ者がいるわけでもない、ただ翼がそちらへ向きたいと言っている——そんな場所。
「飛ぶやろ」
苔子が横に来ていた。玄羽の視線の先を追って、山の向こうを見た。
「どこへ行くん」
玄羽は答えなかった。答えを、まだ持っていなかった。
「また来てな」
苔子はそれだけ言って、家の中へ入っていった。
梅雨の最初の雨粒が、玄羽の翠色の背中に落ちた。
玄羽は飛んだ。
吉備の里とは逆の方向へ。命令でもなく、義理でもなく、ただ翼がそちらを覚えていたから。雨の中を飛ぶのは久しぶりだった。羽根の傷が少し引きつったが、かまわなかった。
翠色の背中に雨がはじけ、山の緑の中へ溶け込んでいった。
書評
本作は、桃太郎説話の周縁に置かれた雉という存在を主人公に据え、「役割を失った英雄の道具」が自分のための翼を取り戻すまでを、山奥の老人との邂逅を通じて描いた短篇小説である。語り口の抑制と主題の精度において、日本語短篇の水準を満たしている。まず注目すべきは、主人公の沈黙という制約の扱い方だ。雉の玄羽は一語も発さない。しかしこの「声を持たない」という物語的制約が、テーマの核心と緊密に連動している——名前を問われても答えられない、感謝の気持ちを言葉にできない、薬草の場所を知っていても知らせられない。「伝えられないことの痛み」が構造的に物語に織り込まれており、「声がない」は欠陥ではなく仕掛けとして機能している。これは短篇という形式の扱い方として高度だ。
廣重のキャラクター造形も評価に値する。鬼退治への感謝と、それでも女房は帰ってこなかったという事実——このふたつを「心から、そう思う」と肯定しながら並置する語り口は、恨みでも赦しでもない、より実存に近い感情状態を提示している。「助かったことと、失ったことは、別の話じゃ」という一文は、本作の中で最も圧縮密度の高い台詞であり、物語の主題を説明するのではなく照らし出している。
文の装置の設計も巧みだ。届けるべき文が届けられなかった、という失敗譚が、「届かなかった形で届く」という逆転によって意味を変える。廣重の息子・廣次への文が、廣重本人(字を読めず、今や鬼籍の傍に生きる老人)を経由してどこかへ届く——この非直線的な到達は、「使命の完遂」という概念そのものを問い直す構造を持つ。苔子の「気持ちが届いたかもね」という子供の直観が、この逆転を過剰に説明せず支える。
ただし、指摘すべき点がないわけではない。第一節から霧重ねへ着くまでの飛行描写は、玄羽の内的空虚を単文で処理しており、終盤の解放と対比させるには素材がやや薄かった。修正稿では「風景を切り取る目が何も切り取らなくなっていた」という一段が加わり、これが九節の「ただ翼がそちらを覚えていたから」という目覚めとの対位的な緊張を担っている。
また本作の文体的な強さは、行動の精度にある。「玄羽はゆっくりと頷くように頭を下げた」「廣重が眠りに落ちるまで、縁側から動かなかった」——感情を記述しない代わりに、身体の静止と微細な動作が情動を担う。この一貫した姿勢が、タイトル「翠雨の季節」の含意——梅雨と翠色の羽根の重なり、そして「溶け込んでいく」というエンディングのイメージ——と響き合っている。
総じて、本作は「英雄の陰に置かれた者」という主題を民話後日談という形式で処理した試みの成功例として読める。玄羽が命令の方向と逆に飛び出す最終場面は、物語の変容を一切説明せずに完結させており、短篇小説が目指すべき沈黙の充足を体現している。