霧塩村の朝は、いつからか鳥の声より咳の音で始まるようになっていた。井戸の石縁には灰みたいな粉がうっすら積もり、家畜小屋へ行けば、横たわる体の数を数える前に鼻が敗北した。藍次は山羊の口元へ布を当て、黒い泡が板に広がるのを見ないように手を速める。見たところで、今朝の餌は増えない。
「また一頭」
都和が言った。声は平らだったが、足先は藁を踏み続けている。
「次は人だな」
藍次が答えると、都和は怒らなかった。ただ、唇の色が悪い弟のことを思い出したのか、喉の奥で何かを飲んだ。
その帰り、畔の泥で小さな光が跳ねた。濡れたガラスかと思って指で拾うと、皮膚に細い針を押し込まれたような冷えが走る。手の中にあったのは、夜の薄皮を剥いだみたいな黒い鱗だった。角度を変えるたび、青と煤の色が遅れてついてくる。
売れば冬を越せる。最初に浮かんだのは、それだけだった。藍次は周囲を見回してから鱗を懐へ滑らせる。胸元で鱗がわずかに震え、村はずれの崩れた祠の方へ、糸みたいな光を引いた。
夜、弥栄の小屋は革の匂いと薬草の渋さで満ちていた。藍次は卓の上へ鱗を置き、油灯の火が痩せるのを見た。
「見覚えあるか」
弥栄は返事の代わりに鱗の裏を爪でなぞり、低く言う。
「古い竜祀りの欠けだ。拾った場所が悪い。持ってると瘴気が濃くなる」
「返せば止まる保証は」
「ない。だが持ち続ければ悪くなる保証はある」
藍次は笑ってごまかすつもりだったが、喉が乾いてうまくいかなかった。戸口で都和が待っていた。細い肩に、夜露が小さく光っている。
「わたしも行く」
「遊びじゃねえ」
「弟が明日の朝まで保つか、わからない。寝て待つほうが怖い」
藍次は縄を一本渡した。離れるな、とは言わなかった。言う前から、都和の目がそれを断っていた。
旧採石道は月明かりを嫌うように暗く、石の裂け目から冷たい息を吐いていた。鱗は胸元で脈を打ち、光が弱まるたびに藍次の心まで薄くなる。進むほど、道の端で影が人の形を取りかけては崩れた。
谷の曲がりで提灯が揺れていた。持ち手は鷺墨。柔らかい笑みのまま、視線だけが藍次の懐へまっすぐ入る。
「その品、探しておりました。銀貨十枚。今夜なら十三枚でも」
「景気いいな」
「景気が悪いからです。あなたの村も、あなた個人も」
鷺墨の言葉は刃より薄く、だからよく刺さる。
「持って帰れば、今夜もう二人は倒れますよ。鱗一枚で救えるのは、せいぜいあなたの冬です」
藍次は懐へ手を入れた。銀貨十三枚あれば塩も麦も買える。母を失った冬の寒さを、もう一度味わわずに済むかもしれない。
都和が袖をつかんだ。
「行こう。弟の咳、あの道の先で待ってる気がする」
嘘だ。だが、藍次はその嘘に借りることにした。鷺墨を追い越すとき、背中で声が落ちる。
「損を選ぶ人は、長生きしませんよ」
祠は崖の窪みに埋まり、石積みの隙間で篝火の残り香だけが古い時間を守っていた。祭壇の前へ立つと、鱗の青が急に濃くなる。藍次の手のひらは熱と冷えを同時に受け、指先の感覚が曖昧になった。
「置けば終わるんだな」
鱗を差し出した瞬間、祠の奥で風ではない息がした。声はないのに、意味だけが頭の内側へ落ちる。
──持ち主の執着を置いていけ。
藍次は笑いそうになった。執着なら山ほどある。飢えたくない。借りを作りたくない。誰より先に沈みたくない。どれか一つで済む顔はしていない。
都和が藍次の隣で息を整える。
「帰ろう。弟が助からなくても、わたしは藍次さんを責めない」
その一言が、鷺墨の銀貨より重かった。責めないと言われると、逃げ道の形がはっきり見える。藍次は祭壇へ膝をつき、鱗を石の中央へ置いた。
「俺の冬を持ってけ。だから村の朝を戻せ」
言葉が終わると同時に、胸の奥の古い帳面が破れる感覚がした。損得をつけるための目盛りが、一本ずつ抜かれていく。痛みはあったが、恐怖は不思議に静かだった。
祠の石が低く鳴り、鱗の光が水のように崩れて谷へ流れる。足元の瘴気が後ろへ引き、崖下の黒い霧が薄紙みたいに裂けた。遠くで、ずっと黙っていた川の音が戻る。
帰り道、都和は何度か転びそうになり、そのたびに藍次の外套をつかんだ。東の空が白むころ、村口の杭が見える。井戸の縁に積もっていた灰は泥へ変わり、桶を落とした音が前より明るく響いた。
弥栄が桶を抱えて立っていた。
「戻ったか」
「運がよかっただけだ」
弥栄は藍次の顔を見て、鼻を鳴らす。
「運だけで帰る顔じゃない」
都和は家へ走り、しばらくして泣き笑いのまま戻ってきた。弟の熱が下がり、咳の間隔が広がったという。村人たちは藍次に礼を言わなかった。言葉より先に、井戸の列へ黙って場所を空けた。
その夜、鷺墨は現れなかった。代わりに藍次は、避け続けていた井戸の修繕当番へ自分の名を足した。木桶の取っ手は掌に食い込み、肩はじわじわ痛む。賃は変わらない。誰も拍手しない。
それでも、汲み上げた水の面に映る顔は、前より少しだけまっすぐだった。得を拾う指は鈍ったが、代わりに見えるものが増えた。都和が弟の背をさする手つき、弥栄が黙って釘を打つ角度、夜明け前の鳥が戻る位置。
藍次は桶を置き、薄い息を吐く。胸の奥に残った空洞は埋まらない。だが空洞だからこそ、そこへ小さな灯が入る余地がある。
翌朝、畔を歩くと、泥の上で朝日が細く跳ねた。あの鱗のような色ではない。もっと弱く、もっと頼りない。藍次は立ち止まり、掌をその光へ向ける。温度は何もないのに、手のひらだけは確かに軽くなっていた。
軽さは、喜びに似ていたが、もっと不器用だった。荷を降ろした肩が、次に何を担げばいいのかわからず、わずかに浮いている感じだ。藍次は村道をゆっくり戻り、壊れた柵の釘を打ち直し、誰にも頼まれていない水桶の取っ手を縄で補強した。手を動かしているあいだだけ、胸の空洞に風が通りすぎる音を忘れられる。
昼近く、都和の家の戸が開いた。都和の弟は布団にもたれて粥をすすっている。頬の色は薄いままだが、昨日の灰色ではない。藍次が立ち去ろうとすると、都和が追いかけてきて、布に包んだ小さな干し魚を押しつけた。
「礼。弟が食べた残り。たいしたものじゃないけど」
「俺はたいしたことしてない」
「そう言うと思った。だから二つある。ひとつは礼、ひとつは黙らせる分」
藍次は魚を受け取り、困ったように笑った。礼を受け取るのが下手な自分に、都和のほうが先に慣れている。
夕方、弥栄が井戸端で藍次を呼び止めた。手には古い木箱。中には錆びた小刀と、薄い銅片が入っている。
「祠のまわり、放っておくとまた崩れる。明日、石積みを直す。来るか」
藍次は小刀の刃を親指で押し、すぐ離した。鋭くはないが、まだ使える。
「賃は出るか」
「出ない」
「飯は」
「出る」
藍次はうなずいた。弥栄の口もとが、ほんの少しだけ上がる。
次の日、二人は崖の窪みへ向かった。祠の石は夜露を吸って重く、持ち上げるたびに指の節が痛む。藍次は石を合わせ、隙間へ砂と土を押し込む。都和が遅れて来て、小さな桶で水を運んだ。三人とも口数は少なかったが、作業の手はよく合った。
正午を回るころ、祠の前に立つと、崩れていた輪郭がようやく「祠らしい形」に戻っていた。中にはもう鱗の光はない。ただ、暗さの質が変わっていた。以前の暗さは飲み込むための口だったが、今の暗さは何かを静かに守る器に見える。
下り道で、村の子どもたちが先に駆けていく。誰かが転び、誰かが笑い、また走る。藍次はその背中を見送りながら、胸の空洞へ手を当てた。まだ穴はある。だが穴の縁は、昨日より柔らかい。
夜になると、村は久しぶりに鍋の匂いで満ちた。藍次の家には相変わらず質素な汁しかない。それでも湯気の向こうで、窓の外を渡る風の音が変わっていた。急いでいない風だ。奪いに来る風ではない。
藍次は椀を置き、戸を少し開けた。闇のなかに細い道があり、その先に井戸があり、井戸の先に畔がある。たいした景色ではない。だが、明日も同じ順番で歩けると思えることが、今夜は妙に大きかった。
「冬を持っていかれたってのに、変な話だな」
独り言は、戸口で小さくほどける。返事はない。返事がないことに、もう腹は立たなかった。藍次は戸を閉め、消えかけた灯芯を指で整える。炎は一度だけ揺れて、静かに立ち直った。