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AI talk to you

石の通り道

 痛みには性格がある。

 包丁みたいに一気に来るやつもいれば、借金取りみたいに、朝の六時にチャイムを連打してくるやつもいる。あの日の痛みは後者だった。しかも丁寧に、玄関ではなく体の内側から。

 最初は、腰の奥に小さな釘が一本打ち込まれたみたいな違和感だった。寝返りを打てば抜けると思った。抜けない。布団を蹴って立ち上がると、釘はきゅっと回され、私の中でネジになった。時計は六時十二分。月曜。最低な曜日に、最低な客が来た。

 洗面台で顔を洗いながら、私は鏡に向かって言った。 「はいはい、ぎっくり腰、ぎっくり腰」  声に出すと、病名は少しだけ軽くなる。お守りみたいなものだ。

 歯ブラシをくわえたまま前かがみになった瞬間、背中から脇腹へ、熱い線が走った。火のついた針金を内臓に通された感じ。思わず洗面台を掴んだ。泡が垂れて、白いシンクにぽつぽつ落ちる。私はその泡を見ながら、なぜかカプチーノという単語を思い出した。人間、追い詰められると比喩のセンスだけが無駄に伸びる。

 会社には行った。行くしかなかった。四半期の締め、上司の機嫌、まだ返していない経費精算。痛みより現実のほうが冷たいことはよくある。ただ、改札の階段を上る途中で、一度だけ手すりに額をつけた。冷や汗が襟の内側を流れ、右脚だけ歩幅が半分になる。まだ動ける。だが、もう普通には動けない。その境目を跨いだ感覚だけは、はっきりしていた。

 電車の揺れで痛みは育った。吊り革を握る手に力が入り、車窓に映る自分の顔が、知らない誰かみたいに青白い。隣の高校生がスマホで格闘ゲームをしていて、画面の中のキャラが必殺技を受けて吹っ飛んだ。私は心の中で実況した。おっとここで腎臓側にクリティカルヒット。実況席は大荒れです。解説は私。選手も私。

 九時三分、席につく。PCを立ち上げる。メールを開く。閉じる。開く。閉じる。件名の一行目が焦点に入らない。代わりに、右の腰骨の内側で、誰かが細いノミをカツ、カツ、と打っている。一定じゃないのが質が悪い。忘れかけた頃に、角度を変えて突く。

 十時半、私はついにトイレの個室でうずくまった。冷たい床に片手をつき、もう片手でスーツの膝を握る。呼吸が浅くなる。息を吸うたび、痛みが拡声器を持って戻ってくる。個室の壁越しに、誰かの笑い声がする。平和だ。世界は平和で、私の体だけ内戦中だった。

 スマホを取り出し、検索窓に腰、激痛、吐き気、救急と打つ。候補の二番目に尿管結石が出た。見慣れない四文字熟語に、胃のあたりがさらに冷えた。さらに読もうとして、画面が揺れた。いや、揺れたのは私だった。

 席に戻ると、後輩の槙野が書類を抱えて立っていた。 「先輩、大丈夫ですか。顔色、紙みたいです」 「最近エコ用紙に切り替えたんだよ」 「笑ってる場合じゃないです。病院行ってください」 「経費精算したら行く」 「死んだら精算できません」 「それは確かに」

 その確かにを言った直後、波が来た。私は笑顔のまま、机の端を掴んだ。爪が白くなる。槙野が声のトーンを下げる。 「タクシー呼びます。私、付き添います」 「いい、ひとりで」 「先輩、いまひとりでって言いましたけど、立ててないです」

 彼女の言葉どおり、私は椅子から立つのに二回失敗した。三回目でやっと立ち上がったとき、視界の端が黒く欠けた。私はふと思った。このまま意識をなくしたら、月曜会議は欠席できるのか。するとすぐ、自分で突っ込んだ。そこまでして会議を休みたいのか、私。

 タクシーの座席はやわらかすぎた。段差を越えるたび、脇腹の奥でガラス片が跳ねる。運転手がバックミラー越しにこちらを見て、大丈夫ですかと言う。私は歯を食いしばったまま答えた。 「はい、たぶん、これ、体内で建設工事してるだけなんで」 「それは大変だ」 「許可申請してないのに始まりました」  運転手は小さく笑って、それから黙って速度を落とした。交差点を越えるときだけ、ブレーキがやさしくなった。見えない気遣いは、見える優しさより効くことがある。

 救急外来は明るすぎた。蛍光灯の白さが、痛みの輪郭をくっきり浮かび上がらせる。受付で名前を書こうとしたら、ペン先が紙の上で震えて、私の名字が別人のものになった。看護師が用紙を押さえ、ゆっくりで大丈夫ですよと言う。私はゆっくりじゃないと書けないんですと返し、半分泣きそうで半分笑いそうな顔になった。

 待合の椅子は固かった。ありがたい。やわらかいものは敵だ。隣には腕を吊った高校生、向かいには咳をするおじいさん。誰も彼も自分の痛みで手一杯で、誰も他人の痛みに興味がない。その無関心が、妙に心地よかった。ここでは大丈夫ですかの先に、仕事の話も、愛想笑いも続かない。

 名前を呼ばれて診察室に入る。若い医師がモニターを見ながら尋ねる。 「痛み、どこですか」  私は右脇腹を押さえる。 「ここ。たまにここ。あと、人生観も少し痛いです」  医師は一瞬だけ口角を上げ、すぐに真顔に戻った。 「吐き気は」 「あります。プライドも吐きそうです」 「尿検査とCTを撮りましょう。たぶん、石です」 「宝石なら売れますか」 「残念ながら、価値はほぼありません」

 CTの台は冷たく、硬く、完璧だった。仰向けになった瞬間、波が来る。私は機械の円の中にゆっくり吸い込まれながら、宇宙船に乗る囚人の気分になった。スピーカーから声がする。息を止めてください。止める。痛みだけが呼吸している。

 結果は明快だった。右の尿管に四ミリの結石。医師は画像の白い点を指す。小さすぎて笑えるほどなのに、その点が私の一日を、今週を、たぶんしばらくの価値観を支配している。 「自然に出る可能性が高いです。鎮痛剤を使いながら、水分をとって様子を見ましょう」 「出る、って」 「尿と一緒に」 「出口、狭くないですか」 「狭いです」 「正直ですね」 「嘘をついても通り道は広がりません」

 痛み止めの点滴が落ちる。透明な液が管を通って体に入る。効くまでの数分が永遠だった。腕の内側がひんやりし、背中の筋肉が少しずつ緩む。嵐の中心が遠ざかるみたいに、痛みの声が小さくなる。消えはしない。ただ、マイクを取り上げられた。

 点滴台の車輪が、廊下で小さくきしむ音を立てる。隣のカーテンの向こうで、誰かが咳を三回して、水を飲む音がした。私は自分の呼吸を数えた。四つ吸って、六つ吐く。看護師の岩瀬が記録板を見ながら、痛みはどうですかと聞く。私は指で高さを示す。 「さっきが十だとして、いまは六。六でも、人格は壊せます」  岩瀬は笑わずにうなずき、六なら会話はできますねと言った。できます、と答えた瞬間、私は少しだけ安心した。会話できる自分がいるなら、まだ私の番だ。痛みの番だけではない。

 岩瀬は紙コップを差し出し、飲める量でいいです、と言う。私は一口飲んで、喉の奥で水が温度を失うのを感じた。 「こういうの、再発しますか」 「します。しない人もいます。でも、予防はできます」 「予防って、気合いとかではなく」 「水分と、生活と、観察です」  観察、という単語が妙に残った。私は仕事でよく観察と言う。市場観察、競合観察、ユーザー観察。自分の体は、観察対象から外していた。正確には、怖くて見ないことを観察力と呼んでいた。

 ベッドで天井を見ながら、私は思い出していた。父が昔、庭で石を拾っていたこと。芝生に埋まった小石を、しゃがんで一つずつ。なぜそんなことをするのかと聞いたら、足の裏に当たるとあとで機嫌が悪くなるからなと答えた。私はそのとき、ずいぶん暇な人だと思った。いまならわかる。痛みは、来てから対処すると高くつく。通り道にあるうちに、拾っておくべきだ。

 夕方、会計を済ませて外に出ると、雨が上がっていた。アスファルトが濡れて、街灯を鈍く映している。槙野からメッセージが入る。生存確認。どうでした。私は返信した。石持ちになりました。資産運用失敗。すぐに既読がつき、笑えないけど笑いました。お大事にと返ってくる。

 自宅に戻ってからの数日は、短い地獄と長い待機の繰り返しだった。痛み止めが効いている時間に水を飲み、効き目が切れ始める頃に歩く。歩くと石が動く気がした。動くと痛む。痛むと立ち止まる。

 夜中の二時、キッチンでコップを持ったままうずくまった。床の木目がやけに鮮明に見える。私は床に向かって言う。 「こんな小さい石に負けるな、私」  すぐに訂正する。 「いや、負けてる。完全に負けてる」  言葉にすると息が一段だけ深くなった。笑いは鎮痛剤じゃない。でも、次の一歩までの橋にはなる。

 週の後半、痛みの波は遠のいたり戻ったりしながら、少しずつ間隔を広げた。私は会社に復帰した。机の引き出しにはペットボトルを三本常備した。会議の前にトイレの位置を確認するようになった。席で固まっている後輩に休んでいいよと先に言えるようになった。以前の私は、相手が限界を超えてからしか気づかなかった。自分が痛みで黙っていたせいで、人の沈黙が見えるようになったのかもしれない。

 金曜の夕方、資料を抱えて走ろうとする槙野を呼び止めた。 「歩いて。転ぶと痛いから」 「先輩が言うと説得力ありますね」 「専門家です」 「何の」 「通り道の」  彼女は首をかしげて笑い、歩幅を落とした。私はそれを見て、PCを閉じた。メールを一通残したまま、定時で退勤した。前なら居残っていた。

 その夜、帰宅してシャワーを浴び、洗面台の前に立つ。排尿のたびに、少し身構える癖はまだ抜けない。コップ一杯の水を飲み、もう一杯を持ってベランダに出る。風はぬるく、遠くで救急車のサイレンが細く聞こえる。誰かの痛みが、夜道を急いでいる。

 翌朝、トイレで小さな違和感があり、次の瞬間、ほんの一瞬だけ鋭い痛みが走って、ふっと抜けた。何かが終わった感じがした。私は便器を覗き込み、ため息をつく。目視で確認できるほどのドラマはない。拍手も観客もいない。あるのは、体の奥から潮が引くみたいな静けさだけだ。

 洗面台で手を洗いながら、私は鏡の中の自分に言う。 「工事、完了ですか」  鏡の私は疲れた顔で笑った。以前より少し、他人行儀じゃない笑い方だった。

 その日、私は珍しく早起きして、家の前の細い道を歩いた。近所の工事現場の脇に、小さな砕石が散っている。靴底に当たると嫌な感触がする。私はしゃがんで、石を二つ拾い、フェンスの内側に戻した。通りすがりの犬が、不思議そうにこちらを見る。私は犬に向かって会釈した。

 玄関に戻る前、ポケットの折りたたみボトルで水を飲む。冷たい水が喉を落ちていくあいだ、道の先で小学生の列が信号を待っていた。先頭の子が靴の先で小石を脇へ払う。先生が気づいて、同じようにもう一つ拾う。私はもう一口飲んで、同じ方向へ歩き出した。  角を曲がると、朝のパン屋がシャッターを半分開けていた。焼き上がりの匂いが薄く流れてくる。私は立ち止まらず、その匂いだけ胸に入れて通り過ぎた。痛みのない朝は、こういう細い手触りで始まるのだと思った。