言わずとしれたキーン氏に当時の日本語学習について尋ねて、そのインタビューを本にしたもの。海軍の日本語学校があって、それがでかかった。それ以前にもいろいろな言語を学習していたらしいが、当時日本語は教える人も乏しく教材も少なかったらしい。中国に関する研究が日本で進んでいたから、中国の研究のために日本語の論文を読む、という需要はあったらしく、そのための教材みたいなのくらいしかなかったらしい。その中でまともだった教科書が長沼さんのやつだったとか。その当時の教科書を見ながらあーだこーだ。
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辞書編纂に関わった若者たちの物語。すごい熱い話だった。執念よ。
よろずのことのはと言っても今や言葉の数はよろず(万)どころではなく、それを集めて解説した辞書ともなると、編纂するのは並大抵の労力ではない。IT技術の一般化によってだいぶ軽んじられてしまいがちなところはあるが、世の中で使われている語彙のスナップショットというか、その時代の考え方やコミュニケーションの全てをまとめたようなものだからなあ。
言葉があるから始まるのだ。ほとんど全てが。
日本で育った台湾人の作家が、自分を取り巻く言語について経験と思索を綴っていく。自身の日本語、親世代の台湾語と中国語のちゃんぽん。中国語も、北京語と台湾で違いがある。複雑でないところまで複雑になってしまう歴史と政治事情。台湾ならでは、この時代ならでは、みたいなところ。世代によっても事情が異なる。稀有なことでもあり、ありふれたことでもある。
話す言語は属する文化とつながっていて、書類上の国籍よりも拘束が強い。そして言葉の使い手が、自分のアイデンティティを母語に求めていく。
障害者の運動家に詳しい文学者が言葉の刃を語る? 悪いがウチではチクチク言葉は禁止されているんだ。
誰しも基本的人権は持つべき。でも実際は金次第という面はあるね。23区内に庭付き一戸建てが基本的人権だとすると、だとするなよ、という声が聞こえそうだが、その環境はまさに金次第なんだよね。人権をどのラインに設定するか。そこの齟齬があるから対立が起きるんだと思う。世の中のラインは低すぎる。私はハイプレスハイラインを志向する。我々の社会ではそれが許されるはず。
トルコに魅せられた言語学者が、トルコ政府が存在を認めない少数民族の言語について長年に渡り調査する。公式にはトルコ人は皆トルコ民族でトルコ語を話す、と。しかし実際はいろんな民族がいていろんな言葉を話している。少数民族と言っても、クルド人は多いし非公式にもクルド人と思われている中にもザザ人がいたり、かなり入り乱れているようだ。多大な危険を冒して調査を進めて…
といった話。この種の真面目な本とは思えないほど、すごく面白かった。実体験、現地調査がとにかくすごい。すごい世界もあったものだ。これは日本に暮らしてるとわからないよ。日本にも少数民族はいるしその人たちの独自の言語もあるわけだけど、存在感の質・量ともにレベルが違う感じ。存在を認めてないクルド人…という印象からはせいぜい数%とかのレベルだと思ったら、1/3くらいがクルド人って。マジかよ。。。
自閉スペクトラム症(ASD)の人は方言を話さないことが多いらしい。人はどうやって言語能力を獲得していくのか、という話にもつながる話。ASDの人の住む世界の理解にも。
いろんな仮説が否定されていく。けっこう面白い話も多かった。鹿児島とか、方言が強いという印象を持たれている地域でも、今は方言が廃れていっていたり。微妙な話しかたの違いなんかは普段意識してないけど、これから気をつけようかな。電車を降りることを指示したい場合の「降りましょう」「降ります」の違い…
言語の学習において、子どもや外国人みたいに未習得の人の反応を見て言語の特性に気づくという話。特異な部分があり、知識がない状態だと過度に一般化して理解してしまうので、そのギャップが露わになる。微調整済みなのが大人ということになる。
自分の子供も狭いコミュニティの中で言葉を違う意味で使うようになるとか、そういう経験があった。「強気」と「弱気」とか。というわけで私も子育ての記憶をたどりながら読んだわけだが、なかなか面白い話だった。